王仁
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

古事記百濟國主(クダラノコニキシ)照古王以?牡馬壹疋(ヲマヒトツ)、牝馬壹疋(メマヒトツ)ヲ ? 、付テ?阿知吉師ニ? 以貢上(タテマツリキ)、此阿知吉師者、阿直史等之祖、亦貢?上(タテマツリキ) 横刀(タチ) 及(ト)大鏡(オホカヾミトヲ)、? 又科? 賜百濟國(クダラノクニニ)、? 若有? 賢人? 者(モシサカシビトアラバ)貢上(タテマツレトオオセタマフ)、 故受?命(カレミコトヲウケテ) 以貢上人(タテマツレルヒト) 、名ハ 和邇吉師、?チ論語十卷、千字文一卷、?セテ十一卷ヲ、付テ?是人ニ? ?貢進(タテマツリキ)、此和邇吉師者、文首等祖 ? 『古事記』、中巻、応神天皇二十年己酉[33]また、百済国王の照古王(しょうこおう)が、牡馬一頭、牝馬一頭を阿知吉師(あちきし)に託して献上した[この阿知吉師は阿直史らの祖先である]。さらに(照古王)は横刀と大鏡とを献上した。また(天皇は)また百済国にお命じになって、「もし賢者がいたならば、献上しなさい」と仰せになった。そこでその命を受けて(照古王が)献上した人は、名は和迩吉師(わにきし)で、論語十巻・千字文一巻と合わせて十一巻を和迩吉師に託して献上した〔この和迩吉師は文首(ふみのおびと)らの祖先である〕。 ? 『古事記』、中巻、応神天皇二十年己酉[34]

和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられることも少なくない[35]
古語拾遺

古語拾遺』では至テ ? 於輕嶋(カルシマ)ノ 應神天皇豐明(トヨアキラ)ノ朝ニ? 百濟ノ王貢ル ?博士王仁(ハカセワニ) ヲ是河内ノ文首始祖(フミノオヒトノオヤ) 也(中略)
至テ? 於後磐余(イハレノ)覆仲天皇稚櫻(ワカザクラ)ノ 朝ニ? 三ノ 韓貢獻(ミツギタテマツルコト) 奕世(ヨヽ)無(ズ) ?絶(タエ)齋藏之傍(カタヘ)ニ更建(タテヽ)内藏(クラ)ヲ? 分收(ヲサム)官物(ミヤケ)ヲ ?仍令メ?阿知ノ使主ト與? 百濟ノ 博士王仁?計サ?其出シ納ルヲ ?始更(サラニ)定?藏部(クラヒトベ) ? 古語拾遺、齋部宿禰廣成[36]応神天皇輕嶋(かるしま)の豊明(とよあきら)の朝(みかど)に至りて、百済(くだら)の王(こにきし)博士(はかせ)王仁(わに)を貢(たてまつ)る。是河内文首(かわちのふみのおびと)の始祖(はじめのおや)なり。秦公(はだのきみ)が祖(おや)弓月(ゆづき)、百二十県民(ももあまりはたちのこほり)を率て帰化(まゐおもぶ)けり。漢直(あやのあたひ)が祖(おや)阿知使主(あちのおみ)、十七県民(とをあまりななつのこほり)を率て来朝(まゐけ)り。秦(はだ)・漢(あや)・百済(くだら)の内附(まゐしたが)へる民、各々(おのもおのも)万(よろづ)を以つて、計(かぞ)ふ。褒賞(ほ)むべきに足る。皆其の祠(やしろ)は有れども、未だ幣例(ぬきたてまつるつら)に預(あづか)らず。

覆仲天皇 後(のち)の磐余(いはれ)の稚櫻(わかざくら)の朝(みかど)に至りて、三韓貢獻(みつのからくにみつきたてまつ)ること、奕世(よよ)絶ゆること無し。齋藏(いみくら)の傍(かたはら)に、更に内藏(うちのくら)を建てて、官物(みやけもの)をおけ収む。仍りて、阿知使主(あちのおみ)と百済主(くだら)の博士王仁(はかせわに)とをして其の出納(あげおろし)を記さしむ。始めて更に藏部(くらひとべ)を定む。 ? 西宮一民(にしみやかずたに)、古語拾遺[37]

とする。
続日本紀

続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の王仁は高帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。(原文)○戊戌、左大史正六位上文忌寸最弟・播磨少目正八位上武生連真象等言、文忌寸等、元有二二家一。東文称レ直、西文号レ首。相比行レ事、其来遠焉。今、東文挙レ家、既登二宿禰一、西文漏レ恩、猶沈二忌寸一。最弟等、幸逢二明時一、不レ蒙二曲察一、歴レ代之後、申レ理尤レ由。伏望、同賜二栄号一、永貽二孫謀一。有レ勅、責二其本系一。最弟等言、漢高帝之後曰レ鸞。々之後、王狗、転至二百済一。百済久素王時、聖朝遣レ使、徴二召文人一。久素王、即以二狗孫王仁一貢焉。是文・武生等之祖也。於レ是、最弟及真象等八人、賜二姓宿禰一。
(訓読)○戊戌(八日)、左大史(さだいし)正六位上文(ふみ)忌寸最弟(もおと)・播磨(はりまの)少目(せうさうくわん)正八位上武生(たけふ)連真象(まかた)ら言(まう)さく、「文(ふみ)忌寸ら、元(もと)二家有り。東文(やまとのふみ)は直と称(しよう)し、西文(かふちのふみ)は首と号(がう)す。相比(あひなら)びて事(わざ)を行(おこな)ふこと、その来(きた)れること遠(とほ)し。今(いま)、東文(やまとのふみ)は家(いへ)を挙(こぞ)りて既(すで)に宿禰に登(のぼ)り、西文(かふちのふみ)は恩(めぐみ)に漏(も)れて猶(なほ)忌寸に沈(しづ)めり。最弟(もおと)ら幸(さきはひ)に明時(めいじ)に逢(あ)ひて、曲(つばひらか)に察(み)ることを蒙(かがふ)らずは、代(よ)を歴(へ)て後(のち)、理(ことわり)を申(まう)すとも由尤(よしな)からむ。伏(ふ)して望(のぞ)まくは、同(おな)じく栄号(えいがう)を賜はりて永(なが)く孫謀(そんぼう)を貽(のこ)さむことを」とまうす。勅(みことのり)有りて、その本系(もとつすぢ)を責(せ)めしめたまふ。最弟(もおと)ら言(まう)さく、「漢(かん)の高帝(かうてい)の後(のち)を鸞(らん)と曰(い)ふ。鸞(らん)の後(のち)、王狗(わうく)、転(うつ)りて百済(くだら)に至(いた)れり。百済(くだら)の久素王(くそわう)の時(とき)、聖朝(せいでう)、使(つかひ)を遣(つかは)して、文人(ぶんじん)を徴(め)し召(まね)きたまへり。久素王(くそわう)、即(すなは)ち狗(く)が孫(うまご)王仁(わに)を貢(たてまつ)りき。是(これ)、文(ふみ)・武生(たけふ)らが祖(おや)なり」とまうす。是(ここ)に、最弟(もおと)と真象(まかた)ら八人に姓宿禰(すくね)を賜(たま)ふ。 ? 『続日本紀』、巻第四十、桓武天皇 延暦十年(791年)四月戊戌[38]

これに従えば、漢高帝の子孫「鸞」なる人物の子孫の「王狗」が百済に渡来し、その孫の王仁が渡来して文氏、武生氏らの祖先となったことになる。この伝承は後の『新撰姓氏録』の記述にもみえる。

王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡出身の中国人系の学者とされ、百済に渡来した中国人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。
新撰姓氏録

新撰姓氏録』には、「諸藩」の「漢」の区分に王仁の子孫の諸氏に関しての記述がある。文宿禰(左京)に「出漢高皇帝之後鸞王也」、文忌寸(左京)に「文宿禰同祖、宇爾古首之後也」、武生宿禰(左京)に「文宿禰同祖、王仁孫阿浪古首之後也」、櫻野首(左京)に「武生宿禰同祖、阿浪古首之後也」、栗栖首(右京)と古志連(河内国と和泉国)にはそれぞれ「文宿禰同祖、王仁之後也」とある。第三帙

左京諸蕃上 ……
漢。……
文宿禰。 出?自?漢高皇帝之後鸞王 ?也。
文忌寸。 文宿禰同祖。宇爾古首之後也。
武生宿禰。 同祖。王仁孫阿浪古首之後也。
櫻野首。 同?上。……
右京諸蕃下……
漢。……
栗栖首。 文宿禰同祖。王仁之後也。……
河内國諸蕃。……
漢。……
古志連。 文宿禰同祖、王仁之後也。……
和泉國諸蕃。……
漢。……
古志連。 文宿禰同祖、王仁之後也。 ? 新撰姓氏録[39][40][41][42]

祖先が漢の帝室に出自を持つ「鸞王」である点などが、『続日本紀』と対応している。また、孫の名として「阿浪古首」が記されている。
各説

日本書紀』や『新撰姓氏録』には漢人という記録は存在せず、百済から来たという記録だけ存在するが、百済に渡来した漢人であるとする学者の見解もある[2][4][5][6][9][10][12][13][14][16][11][17][3][7][8][15][18][19][注釈 4][注釈 5][注釈 6][48]。一方、津田左右吉をはじめ実在を疑問視する説も多数ある[49][48][20][21][22][23][24][25][27][28]山尾幸久は儒教を伝えた実在の王辰爾(王智仁)の功績に基づいて渡来人らが作成した伝承とする[1]
王仁作とされる歌

なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな

古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされる難波津の歌百人一首には含まれてはいないが、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌である。歌人の佐佐木信綱が序歌に選定したとされる。なお大会の歌は「今を春べと」に変えて歌われる[50]
能・狂言における王仁


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:155 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef