晋の永嘉年間には向秀・郭象が現れ、礼法名教や富貴貴賤は天理の自然から生じたもので人は自然に任せて分に安んじることで己を守るべきであると主張した[2]。特に後者の著した『荘子注』は先行する思想を総括した当時の玄学の到達点を示すものとして後世に影響を与えた[1]。
続く南朝の諸王朝でも玄学は隆盛し、晋を継承した宋の明帝は玄学を儒学・文学・史学と並ぶ「四科」とした[2]。しかし、張湛による『列子』注解の著作はあったものの、玄学そのものを発展させるような新たな見地は登場せず、前代からの論点を議論し続けるだけであった[1]。また、仏教が本格的に中国に伝わると、仏教の教義を玄学的に解釈することで受容されていったが、玄学と仏学の合流は結果的には仏教の隆盛と共に玄学の衰退をもたらすことになった[1][2]。
脚注^ a b c d e 「玄学」『中国文化史大事典』
^ a b c d e 「玄学」『中国歴史文化事典』
参考文献
孟慶遠 編/小島晋治 他訳『中国歴史文化事典』(新潮社、1998年) ISBN 978-4-10-730213-7
古勝隆一「玄学」『中国文化史大事典』(大修館書店、2013年) ISBN 978-4-469-01284-2