猿楽
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ただし、梅若猶彦は世阿弥の能論における最も重要な美的概念が「幽玄」ではなく「妙」であることを指摘しており[19]、「幽玄」が能の美的側面における支配原理というわけではない。「妙」については世阿弥もその出現の原理や内容を完全に説明しきれておらず、「形無き姿」「無心」といった比喩によって説明を試み、またこの美的性質は子方の演技においても稀に感得されることがあると指摘している。梅若は「妙」と「幽玄」を比較し、「妙」はそれが現れた時には演技者と観客のいずれにも作用するものであるのに対し、「幽玄」はあくまでも演技者が観客に対して意図的に表現しようとする美的性質に留まると論じている。

能においては、仮面が様々な表情を見せるという意見は非常に多い。悲しみ、怒り、喜びなどそれらの表情が無表情の仮面の中に現れるというのである。これらは観客が演技者の演技によって、その世界に没入し感得することで得ているといえる。それらのように深奥にあるものを感じさせる、感じ取ることを幽玄の具体的な意味として受け取っている観客も多い。
世阿弥の著作

応永7年(1400年)、世阿弥は『風姿花伝』を著した。この書の第一章にあたる「年来稽古条々」は「初心わするべからず」や「時分の花」などよく知られた内容があり、その理論は現代で通用するものと評価されている。内容には、観阿弥の考えも含まれていると考えられている。その後世阿弥は、『花鏡』、『拾玉得花』、『申楽談儀』(口述)など研鑽に基づく理論を伝書として残している。現在二十一種が伝書として知られている。
型附

現在でも、古くから続く家には、秘伝を記した書物が伝承されていることがある。これを「型附」(かたづけ)と呼ぶ。
織豊時代の申楽(猿楽)

戦国時代には、猿楽の芸の内容に大きな発展はなかったと考えられている。また通説では、申楽は織田信長豊臣秀吉ら時の権力者に引き続き愛好されていた。『宇野主水日記』によると、信長は天正10年(1582年)に安土(現在の近江八幡市安土町)のハ見寺徳川家康とともに梅若家の申楽を鑑賞しており、自身も小鼓をたしなんだと言われ、長男の信忠は自ら申楽を演じた、などともされている。ただし、信長が愛好したとして有名な「敦盛」は幸若舞でありではないにもかかわらず、映画テレビで演じられる桶狭間の戦いの前の信長の舞は能の舞と謡いで行われ、そして司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく 四十三 濃尾参州記』のように「まず陣貝を吹かせ、甲冑をつけ、立ったまま湯漬けを喫し、謡曲「敦盛」の一節をかつ謡いかつ舞ったのは、有名である」などという誤りが広められてしまっていることには注意すべきである[20][21]

幸若舞を好んだ信長に対して、秀吉は晩年熱心に申楽を演じた。文禄2年(1593年)10月には秀吉は後陽成天皇の前で、3日間続けて何番もの申楽を演じている[注 3]。しかしその一方で、秀吉は大和四座以外の申楽には興味を示さなかったため、この時期に多くの申楽の座が消滅していった。いわば、現在能と称されている猿楽が、それ以外の申楽から秀吉によって選別されたのである。
江戸時代の猿楽

江戸時代には、徳川家康や秀忠家光など歴代の将軍が猿楽を好んだため、猿楽は武家社会の文化資本として大きな意味合いを持つようになった。また猿楽は武家社会における典礼用の正式な音楽(式楽)も担当することとなり、各がお抱えの猿楽師を雇うようになった。間部詮房は猿楽師出身でありながら大名、さらには幼少の将軍を代行する事実上の国家の執政にまで出世した人物として知られている[22]

なお、家康も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた申楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、元和年間(1615年から1624年)に喜多流の創設を認めている。家康は観世座を好み、秀忠や家光は喜多流を好んだとされるが、綱吉は宝生流を好んだため、綱吉の治世に加賀藩尾張藩がお抱え猿楽師を金春流から宝生流に入れ替えたと言われている。その結果、現在でも石川県名古屋市は宝生流が盛んな地域である。

その一方、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}猿楽が武家社会の式楽となった結果、庶民が猿楽を見物する機会は徐々に少なくなっていった[要出典]。しかし、町人の習い事として流行し、多くの謡本が出版された(寺子屋の教科書に使われた例もある)。実際に観る機会は少ないながらも、庶民の関心は強く、寺社への寄進を集める目的の勧進能が催されると多くの観客を集めたという[要追加記述]。四座一流に属さない役者による庶民を対象とした猿楽の興行も行われ、桃山時代に引き続き辻能と呼ばれた[23]
明治時代

明治14年(1881年)、明治維新で衰微した猿楽の再興を目指して能楽社が設立された際に能楽と改称された。「能楽社設立之手続」には、「前田斉泰ノ意見ニテ猿楽ノ名称字面穏当ナラサルヲ以テ能楽ト改称シ……云々」とある[24]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 読み方は「いまくまの」である。現在、この地には新熊野神社(いまくまのじんじゃ)が鎮座する。
^ ただし、室町時代から織豊時代にかけては大和申楽(猿楽)以外にも若狭猿楽・近江猿楽・加賀猿楽・伊勢猿楽・丹波猿楽など数多くの申楽(猿楽)の流派があり、それぞれに座が存在していた。現在、観世流の職分家の中でも名家中の名家である梅若家は丹波猿楽の系統の一族である(梅若猶彦『能楽への招待』岩波書店、2003年、83ページ)。
^ 5日は「翁」「弓八幡」「芭蕉」「皇帝」「源氏供養」「三輪」、6日は「老松」「定家」「大会」および狂言「首引」(家康と共演)、7日には「呉服」「田村」「松風」「江口」「雲林院」「杜若」「金札」(梅若前掲書84-85ページ)

出典^ 『能・狂言』、32頁
^ 風姿花伝 第四卷 神儀『花伝書研究』野上豊一郎著 (小山書店, 1948)
^ 『能・狂言事典』、257頁
^社団法人・能楽協会 能楽 歴史
^ 『能・狂言を学ぶ人のために』、4頁
^ 『国史大辞典 6』、478頁
^ 『日本の伝統芸能講座 音楽』、173頁
^ 『能・狂言図典』、81頁
^ 『邦楽百科辞典』
^ 『日本歴史大事典 2』、285頁
^ 『日本史大事典 3』、692頁
^ 佐倉市民カレッジ 差別を考える 観阿弥と世阿弥
^武将家出自列伝 観世氏
^ 『宴の身体:バサラから世阿弥へ』、1章および4章
^ 『宴の身体:バサラから世阿弥へ』、4章
^ 『宴の身体:バサラから世阿弥へ』、5章から8章
^ a b 『ようこそ能の世界へ』
^ 『能楽への招待』
^ 『能楽への招待』、153-164頁
^ 松田存『能・狂言 伝統芸能シリーズ5』ぎょうせい、1990年、ISBN 4324018146、42ページ
^ 国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、2009年、ISBN 9784473035301、181ページ
^ 『能・狂言の基礎知識』、35頁
^ 江戸時代の能楽に関する基礎的研究 KAKEN
^ 『演劇百科大事典 4』、384頁

参考文献

松田存『能・狂言』
ぎょうせい、1990年、ISBN 4-324-01814-6

西野春雄 羽田昶『能・狂言事典』平凡社、1987年、ISBN 4-582-12608-1

林和利『能・狂言を学ぶ人のために』世界思想社、2012年、ISBN 978-4-7907-1559-7

国史大辞典編集委員会 『国史大辞典 6』 吉川弘文館 1985年。


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