真偽は不明ながら、4世紀から6世紀にかけて日本列島に渡来した渡来人の中には、献帝の子孫を称するものが多く見られる。詳細は「東漢氏」を参照
年表
中平6年(189年)4月、霊帝崩御。蹇碩・董太后・董重が、何進の排除と劉協の擁立を謀るも失敗。同月、劉弁即位。劉協は勃海王となる。7月、劉協、陳留王となる。8月、何進と十常侍の争いによる朝廷の混乱に乗じ、董卓が?陽(洛陽)に入城。劉弁を廃位し、劉協を皇帝に擁立する。11月、董卓、相国となる。
初平元年(190年)正月、袁紹・曹操ら関東の諸侯が董卓に反旗を翻す。2月、董卓、長安への遷都を強行する。
初平2年(191年)2月、董卓、太師となる。
初平3年(192年)4月、董卓、王允と呂布に暗殺される。王允、録尚書事となる。6月、董卓軍の、李?・郭・樊稠・張済らが長安を攻撃。王允が殺される。9月、李?は車騎将軍、郭は後将軍、樊稠は右将軍、張済は鎮東将軍となる。
興平元年(194年)正月、興平に改元。献帝、元服する。
興平2年(195年)2月、李?が樊稠を殺害し、郭とも戦う。以後、関中は戦乱となり、献帝は各地を転々とする。4月、貴人の伏氏を皇后とする。7月、死亡した乳母の呂貴に平氏君の称号をおくる。
建安元年(196年)7月、献帝、洛陽に帰還。8月、曹操を呼び寄せ、領司隷校尉・録尚書事とする。都を洛陽から許に遷す。11月、曹操、司空・行車騎将軍となる。
建安2年(197年)3月、曹操の推挙により袁紹が大将軍となる。この年、江淮で飢饉が起き、民は互いに食い合った。
建安5年(200年)正月、車騎将軍の董承・偏将軍の王服・越騎校尉の?輯ら、密詔を受け曹操暗殺を計画する。曹操、董承らを殺害する。9月、曹操、袁紹の軍と官渡で戦い、勝利する(官渡の戦い)。
建安9年(204年)8月、曹操、冀州を平定し、冀州牧となる。
建安12年(207年)8月、曹操、烏桓を柳城に破り、?頓を斬る。11月、遼東太守の公孫康が袁尚・袁煕を殺害。曹操河北を平定する。
建安13年(208年)6月、三公の制度を廃し、丞相・御史大夫を設置。曹操、丞相に就任。?慮、御史大夫に就任。7月、曹操、南征して劉表を攻撃。劉表は死去し、子の劉jが曹操に降伏。10月、曹操、水軍を率いて孫権を攻撃するも、周瑜に烏林・赤壁で敗れ撤退(赤壁の戦い)。
建安18年(213年)5月、曹操、魏公となり、九錫を加えられる。
建安19年(214年)11月、曹操、伏皇后を殺害。
建安20年(215年)正月、貴人の曹節(曹操の娘)、皇后となる。
建安21年(216年)4月、曹操、魏王となる。
建安23年(218年)正月、少府の耿紀・丞相司直の韋晃らが曹操殺害を実行したが失敗(吉本の乱)。
建安25年(220年)正月、曹操死去。子の曹丕が魏王となる。3月、延康に改元。10月、曹丕に皇位を禅譲し、後漢滅亡。劉協は山陽公に封じられる。
青龍2年(234年)3月、死去(54歳)。
宗室【後漢王朝系図】(編集)
長沙王
劉発
更始帝
劉玄 斉王
劉? (1)光武帝
劉秀
東海王
劉彊 (2)明帝
劉荘
(後3)章帝
劉?
千乗王
劉伉 清河王
劉慶 (4)和帝
劉肇 済北王
劉寿 (追)穆皇
劉開
楽安王
劉寵 (6)安帝
劉? (5)殤帝
劉隆 *北郷侯
劉懿 (追)崇皇
劉翼 (追)元皇
劉淑
勃海王
劉鴻 清河王
劉延平 (7)順帝
劉保 (10)桓帝
劉志 (追)仁皇
劉萇
(9)質帝
劉? 清河王
劉蒜 (8)沖帝
劉炳 (後11)霊帝
劉宏 渤海王
劉?
*弘農王
劉辯 (12)献帝
劉協
后妃
正室:伏寿(廃) - 伏完の娘
継室:曹節(献穆皇后) - 曹操の娘
側室:貴人曹憲 - 曹皇后の姉
側室:貴人曹華 - 曹皇后の妹
側室:貴人董氏 - 董承の娘
側室:貴人宋都
子女
太子(名は不詳)
南陽王 劉馮
済陰王 劉熙
山陽王 劉懿
済北王 劉?[12]
東海王 劉敦
長楽公主 劉曼
伏氏との皇子2人
曹丕の嬪2人
孫
劉康
曾孫
劉瑾
玄孫
劉秋
脚注[脚注の使い方]^ 『逸周書・諡法解』では「聡明叡哲曰く献」、『史記正義・諡法解』では「聡明叡哲曰く献、知に通じるの聡有り」「知質有聖曰く献、通じて而も蔽無し」とされている。
^ 『逸周書・諡法解』では「国に在りて難に逢うを愍と曰う」「民をして折傷せしむるを愍と曰う」「国に在りて憂に連なるを愍と曰う」「禍乱方に作らんとするを愍と曰う」とされている。
^ 『太平御覧』巻137が引く司馬彪『続漢書』記載「光和四年三月癸巳,生于?陽宮」(両千年中西暦換算より、この日は紀元181年4月2日)より。