ほりかねのなかだいさくさんのところいてかみを
もでいてをどかしむすめのいのちがほしければ
かねを20まいんお女のひとにもたして五月二日
のごご12時2さのや門のまいまでとどけろといて
きんに10まんいをとりそこねたことわわたくしのやたことでわありません」との内容であり、身代金の受け渡し指定時刻は、ここに「午後12時」と明記されていた。
^ これについて石川は「私がIさん方に仕事をして居る頃は土、日曜日以外は五時頃上げてきた事は一度もありませんでしたがこの日はこの様な時間に来たので私は今ではヘンに思われて成りません」と荻原佑介あて書簡(1965年11月22日)に記している。狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』p.230による。
^ 石川一雄は2013年に「事件が起きた時間帯には両親と妹2人と弟と6人でご飯を食べていた」と主張しているが[115]、確定判決によると被害者の死亡推定時刻は5月1日16時20分ごろであり[48]、この時刻の石川の姿は目撃証言がない。
^ 判事として二審を担当した寺尾正二は石川の発言の中に、性交経験について当初童貞と自称していた(二審の第26・66回公判の供述では前言撤回し、事件までに複数の女性と性交していた旨を認めている)、1963年6月20日に裁判官の勾留質問で被害者について「知らないから知りません」と陳述した(しかし同日付で石川は埼玉県警狭山署川越分室の留置場の壁板に被害者への詫び文句を爪書きし、なおかつ「自分を含む3人の犯行だった」と自供している)、「自分を含む3人の犯行だった」と自供したのは6月23日だったと二審で主張した(実際は6月20日のことであったと認められる)、などの虚偽が含まれていることを指摘し、石川を「意識的、無意識的に虚実を取り混ぜて供述する傾向が特に顕著」と評した。これは「石川うそつき論」と呼ばれる。また寺尾は弁護側の主張について「被告人の供述の微細な食い違いや欠落部分を誇張し、それゆえ被告人は無実であると終始主張している。これは全く短絡的な思考であって誤りであると言わざるを得ない」とも批判した。
^ 「石川が家へ来てから字を書く所は見ておりませんし,石川の書いたものも見たことはないが,家へ来たとき,青インクの小瓶を箱に入ったまま持っていたし,万年筆も持っていて,1回石川とジョンソン基地へ残飯上げに行ったとき,入門証を書くとき,石川から万年筆を借りて書いたことはあったが,石川がボールペンを持っているかどうかは知りません」(I養豚場経営者の検察供述調書。1963年6月8日)ただし石川一雄がときどきボールペンを使っていたことは、一雄の兄が証言している(『読売新聞』1963年6月27日付)。
^ 「石川は、私の家に居るとき、読んでいたものは歌の本とか週刊明星が主でしたが、私が野球が好きで報知新聞をとっていると、この新聞の競輪予想欄を見ては、しるしをつけていたし、私の家でとっている読売新聞も読んでおりました。また、去年の12月ごろ、石川が自動車の免許証を取りたいと言っていたとき、私が免許証をとるとき使った交通法規の本と自動車構造の本を石川に貸してやったら、それを少し読んでいるのは見ました」(I養豚場経営者の検察供述調書。1963年6月8日)
^ 当時、被害者宅やその所在地を尋ねたとされる近隣農家には表札はなく、石川自身は2008年5月のインタビューで「脅迫状届けに行くのに、被害者の自転車に乗って近所の家で尋ねること自体が変でしょう。そこがもし、被害者の家だったらどうするんですか? そんなこと、どう考えたってあり得ないでしょう」と反論している[111][128]
^ 五十子米穀店の配達区域は狭山市大字入間川菅原4丁目、峯、旭町、加佐志、沢であった[129]。菅原4丁目には石川の自宅があった。
^ 配布先は東京都池袋、東京都瑞穂町、埼玉県所沢市、埼玉県川越市、東京都浮間などであった。狭山裁判第2審第48回公判の記録による[130]。
^ 「被告人の姉婿ISは五十子米屋から二本配布を受けたのに一本しか貰わないと主張し」というのは 東京高裁判決 に引用された滝沢直人検事の証言であるが、狭山弁護団の松本健男は、上掲ISが五十子米穀店の手ぬぐいを「配布されていないことを当初より強く主張していた」、「配布された事実がまったく存在しない」と記しており[133]、両者の記述には齟齬がある。なお、上掲の松本の記述にもかかわらず、部落解放同盟は2013年に「IS宅には実際には1本しか配付されていない」と喧伝しており[134]、「配布された事実がまったく存在しない」との主張と一貫していない。
^ この五十子米穀店の配布メモについて、狭山弁護団の松本健男は「(米穀店の店主が)捜査官に迎合して配布メモに改ざんを加えたものと考えられる」と非難している(部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[解説編]』p.252)。
^ この教育振興会会長の長男は被害者の中学校時代の同級生であり、長男が生徒会長、被害者が副会長という間柄であった。被害者は日記の中でこの長男に好意を吐露している。なお、この教育振興会会長の兄(農業。のち狭山市議会議員。1989年8月死去)は「少時」と同じ発音の名前であり、なおかつ当時小さな子供がいたため、脅迫状の「少時様」に擬せられたこともある。『週刊文春』1963年6月10日号「平和な村を襲った殺人犯パズル狂騒曲のあと」、ならびに亀井トム『狭山事件 無罪の新事実』p.160-166による。
^ 一審で罪を認めていたにもかかわらず控訴審や上告審で無罪主張に転じた事例としては、光市母子殺害事件(被告人は2012年に死刑が確定した)や、岩手県洋野町母娘強盗殺人事件(被告人は2012年に死刑が確定した)や北九州監禁殺人事件(被告人2名は2011年に死刑と無期懲役刑が確定した)などがある。
^ 石川には夢遊病的な前歴があり、18歳の夏には昼寝中に起き上がって全裸で近所をかけずり回ったことがあると狭山裁判第一審第8回公判で自ら証言している。
^ 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』p.135-136にはそのように書かれているが、当の橋本紀徳は「弁護人は、石川さんが起訴事実を全て認めているにもかかわらず、公判の最初から、無実を主張し、無罪判決を求めました」[143] と記しており、両者の記述には矛盾がある。
^ 関は1916年3月、埼玉県入間郡勝呂村(現・坂戸市)生まれ。事件当時は石川一雄と同じ被差別部落に住んでおり、亀井トムからは「部落出身らしい警察官」と呼ばれている。『狭山事件』(辺境社、1972年)p.43, p.290を参照。
^ ただし石川はこの同房者の発言について「そのようなことを言った覚えはないんですけれども、何か聞き間違いじゃないでしょうか」「Yちゃん事件の共犯じゃなく、パイプのこと(ジョンソン基地からパイプを盗み出して売却した件。起訴されていない─引用者註)を話したのをあなたが、そういうふうに受取ったような私は気がする(ママ)んですけれども」「パイプを盗んだ時七人位共犯がいたんです。実際に盗んだのは三人ですが、一応ここでも以前述べましたが、Iさん(I養豚場経営者の兄)という人の名前だけは話すまいと思ったんです」と反論している[151][149]
^ この荻原は、被害者やその母について「男好きの淫奔な女性で死亡まで肉体関係をしていたという色男が十人位いた」「被害者●●●●は(中略)体格は一人前の女に成長し、性格は死ぬまで○○○○をしていた○○が十人もいたという多情多感、○○な母に似て中学一年生位の時から既に男性に積極的で」云々と誹謗中傷した証拠申立書(1964年10月26日)を埼玉県警本部長の上田明に送りつけ、それによって石川の無実を証明しようと図ったのみならず、被害者が男を誘ったのだとして強姦の事実そのものを否定しようとしていた。亀井トム『狭山事件権力犯罪の構造』(三一書房、1975年)による。
^ IKは石川に事件当日のアリバイや血液型を尋ねたのを5月19日と証言している[57]。
^ IKとTAが逮捕された日付を『狭山差別裁判 第3版』p.310は6月3日としているが、『狭山差別裁判 第3版』p.79ならびに『毎日新聞』1963年6月5日付第13版は6月4日としている。