現代の意味で「独裁」を初めて使用したのはフランソワ・ノエル・バブーフである。「独裁」は抑圧的で残虐な支配や、権利の濫用などに対する批判的な用語として、圧倒的に使用されるようになった。
なお類義語に「専制 autocracy」があり、「絶対権力を持ったひとりの者によって統治される国や社会」[3]である。
独裁は、しばしば法の支配による手順を無視した形での、国家の非常事態宣言、市民の選挙や自由権の停止、法令による規制、政治的抑圧などが実施される[4] [5]。
独裁には個人独裁(個人崇拝)、少数者による独裁(寡頭制)、組織の独裁(一党独裁・軍事政権・革命政府など)という形があるが、一党独裁や寡頭制など当初は集団指導体制を採っていた場合も、特定の個人がさまざまな策を練り徐々に自分に権力を集中させ個人独裁に陥る事例もある。
合議制、寛容、多様性あるいは法の支配などを軽視または無視した強権的・独善的な政治を行う、そして人権や人命を軽視し自国の国民をまるで家畜や虫けらのように扱っている、と批判される場合が多い。また独裁者はしばしば不正蓄財を行い、国の財政のお金つまり本当は国民全体が税金などという形で捻出した公共のお金のかなりの部分を、自分の独りの懐(金庫)におさめている、と批判されている。つまりしばしば国家を「私物化」している、と批判されている。
右翼か左翼かは問わず、軍事政権、一党独裁制、文民政府などを独裁政治と呼ぶことがある。
具体的に誰を「独裁者」と呼ぶかは、場所により異なる。独裁者は、独裁政を行っている国の中だけでは「指導者」や「英雄」などと呼ばれている、あるいはそう呼ぶことを強制される。その国の外では通常「独裁者」と呼ばれている。ただし、国の外でも国民は支配されていて「指導者」や「英雄」と呼ぶことを強要される。
なお、もともと独裁政権や植民地支配に対抗した人物、国内で「指導者」「英雄」と呼ばれるようになった人物が、権力を得た後に、結局、独裁政治を行ってしまう場合もある。 独裁者が行う言論統制は、放送、新聞、雑誌など、ありとあらゆる媒体で行われる。現代ではインターネット上のサイトやSNSも遮断され、検閲される。文章が強制的に削除されたり、サイトが閉鎖されたり、投稿者が逮捕されたりする。中国では(独裁者、独裁している党によって)グレート・ファイアウォールがつくられてしまっており、欧米の世界や日本で自由に読むことができるウェブサイトが、ウィキペディアなども含めて、一切読めないようにされてしまっている。中国国内の国民は、世界のインターネットから遮断されてしまっているのである。独裁者がいると、ウィキペディアなども検閲され、(サイバー部隊などを動員して)改ざんされたり、閲覧不能になるように技術的に遮断されてしまったりする。2022年3月にはベラルーシでロシア語版ウィキペディアの投稿回数が多い投稿者が逮捕されてしまった[6]。 最初に「独裁」という言い方が使われたのは、古代ローマで非常時に元老院より任命された官職の「独裁官」であるとされる[7][注釈 1]。 共和政ローマにおける独裁官は、国家の非常事態に任命され、6ヶ月間に限り国政を一人で操ることができた。しかし紀元前44年、ガイウス・ユリウス・カエサルは自らを終身独裁官に任命したことにより実質上共和政は変質し、後に一人支配が常となる元首政(プリンキパトゥス、いわゆる帝政ローマ)が誕生する礎となった。ただしローマ皇帝は形式上は君主ではなく市民であり、共和国の守護者とされた。 近代以降では、フランス革命後のマクシミリアン・ロベスピエールらが恐怖政治を行った。その後、ナポレオン・ボナパルトが軍事政権を樹立し、国民投票によりフランス皇帝となった。ただし、これらも名目上はフランス革命の理念の防衛であり、フランス皇帝は従来の王とは異なり共和国を支配するものとされた。またフランソワ・ノエル・バブーフは完全平等主義のための「階級独裁」を提唱した。 1875年、カール・マルクスは著作『ゴータ綱領批判』で、ブルジョワ社会での議会制民主主義は少数であるブルジョワジー勢力にのみ政治参加が認められており、多数であるプロレタリアートに政治参加の道が開かれておらず、そのためプロレタリアートは疎外状態にあるとして、資本主義社会から共産主義社会へ移行する過渡期においてプロレタリア独裁が必要とした。その後、マルクス・レーニン主義を掲げる多くの社会主義国の憲法や、コミンテルン系の多くの共産党の綱領などには、党による「独裁」が明記され(党の指導性、一党独裁制)、特にヨシフ・スターリン時代のソ連や、彼の支援によって成立した社会主義国では、指導者による個人独裁も見られた(スターリニズム、個人崇拝)。
独裁者が使う政治手法
歴史詳細は「独裁官」、「独裁政治」、および「専制政治」を参照