最後の6分間の演説についてアメリカなどの右翼勢力は「共産主義者の陰謀である」として強く反発した。また、1929年の世界大恐慌によって黒人やユダヤ人を迫害するKKKを中心とした右翼がアメリカをはじめ先進諸国で台頭したため、そのことも『独裁者』に対する反発を促進させることとなった。
アメリカとドイツはまだ開戦していないものの(ドイツがアメリカと開戦するのは1941年12月になってからである)、映画の内容から、当事国であるドイツはもちろん、ポーランドやオーストリアなどのドイツの占領下、影響下にある地域、ドイツと同盟関係にあった日本やイタリア、またアルゼンチンやチリなど、ドイツ系移民が多く親独政権が多かった南米諸国や、中立政策を採っていたアイルランドでは上映禁止となった[注 11]。高見順は1941年12月にジャワ島で、小林桂樹は陸軍兵士としてイギリスが植民地支配していたシンガポールに駐屯した際、イギリス軍からの押収品の中に『独裁者』のフィルムがあり、それを見たという。
日本初公開は第二次世界大戦の終戦から15年、サンフランシスコ講和条約締結から8年後の1960年であった。しかし、日本でもヒットし興業収入は1億6800万円を記録、この年の興業収入第4位となった。同年のキネマ旬報ベストテンでは外国映画の第1位にランキングされた[19]。1973年10月にリバイバル公開[20]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
評価
出典検索?: "独裁者" 映画
『独裁者』は、発表と同時にアメリカで大人気となった。批評家の反応は様々で、特に終盤のチャップリンのスピーチを「容共的」、「左翼的」として批判する者も多かった[要出典]。喜劇化された突撃隊を、ナチスの恐怖を大っぴらに誇張していて不謹慎だとする意見もあった[要出典]。だが、ユダヤ系の観客はユダヤ人のキャラクターとその絶望に深く感動した[要出典]。当時のハリウッドでは、ユダヤ人に関することはタブーであったのだ[要出典]。
ジャーナリストのボズレー・クラウザーは、ニューヨーク・タイムズ紙上で「『独裁者』は、過去最高の映画ではないにせよ、真に偉大な芸術家による本当に素晴らしい業績であり、ある観点からは、おそらくこれまでに制作された中で最も重要な映画」と称賛した[21]。
喜劇映画としては、ギャグの豊富さが指摘されている[22][注 12]
ランキング
2000年 「コメディ映画ベスト100」(AFI発表)第37位
2008年 「史上最高の映画100本」(仏『カイエ・デュ・シネマ』誌発表)第24位[23]
2017年 「史上最高のコメディ映画トップ100」(英BBC発表)第16位[24]
2018年 「史上最高のコメディー映画ベスト100」(米『ペースト』発表)22位[25]
2022年 「史上最高のコメディー映画ベスト100」(英『タイムアウト』誌発表)第77位[26]
以下は日本でのランキング
1960年 第34回「キネマ旬報ベストテン・外国映画」(キネマ旬報発表)第1位[19]
1988年 「大アンケートによる洋画ベスト150」(文藝春秋発表)第24位
1995年 「オールタイムベストテン・世界映画編」(キネマ旬報発表)第18位
1999年 「映画人が選ぶオールタイムベスト・外国映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第28位
その他、個人によるランキングでは、映画監督のジャン=リュック・ゴダールが1963年に、最も好きなアメリカ映画ベスト10の第2位に本作をランキングしている[27]。 チャップリンの友人コンラッド・ベルコヴィチ
盗作訴訟
前作『モダン・タイムス』はドイツの映画会社トビス社から訴訟を起こされた(1937年と1947年の計2回)。チャップリンサイドは、『モダン・タイムス』への訴訟(2回目)を、『独裁者』への報復であるとみている[31]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
チャップリンとヒトラー
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チャップリンによるヒトラーのパロディー描写ヒトラー(1939年)「アドルフ・ヒトラーの死」も参照
チャップリンとヒトラーとの間にはいくつかの共通点があり、チャップリンは1889年4月16日生まれなのに対し、ヒトラーは1889年4月20日とわずかに4日違いである。またトレードマークが口ひげであり、チャップリン自身ヒトラーの口ひげは自分のオリジナルキャラのチャーリーを下品にしたようだというイメージを持っていた。
また、チャップリンはロンドンの貧しい家に生まれ、生活に苦労し、ヒトラーは生まれた家は中産階級で豊かだったものの青年期において公共独身者合宿所で生活しているということ(これについては近年[いつ?]『我が闘争』でヒトラーが誇張したものであって、実際の施設である公共独身者合宿所は必要最低限の生活ができる施設であったという説が有力である)、また両人に一時ユダヤ人説が流れていたことで共通項が多いと見る向きもある。[誰によって?]
また、ヒトラーは政治キャリアの初期においてすでに、映画界におけるチャップリンの人気に目をつけていたとする意見もある。“チャーリー”のキャラクターとヒトラーの類似はたびたび語られるところである。つまり、自らの知名度を上げるために、チャップリンと同じ四角い口ひげを生やしていた、というのである。[誰によって?]
チャップリンは本作の役作りのためにヒトラーのニュース映像を取り寄せて、繰り返し鑑賞した。長男のチャールズ・チャップリン・ジュニアの回想によると、チャップリンはヒトラーのポーズを詳細に研究し、ヒトラーについて「やつは役者だよ。俺なんかとうてい及びもつかんよ」と感心していたという[10]。