独裁者_(映画)
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また、ベンツィーノ・ナパロニ(Benzino Napaloni)はイタリア首相ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)のもじりである[注 4][注 9]

ヒンケルの演説は、日本においては従来「ドイツ語らしく聞こえる無国籍語」[8]と形容されるように意味不明のデタラメ語[9]と解釈されてきた。しかし時代が下ると、演説中に「英語をドイツ語風に発音したものやドイツ語の単語も登場し」「さまざまな言葉遊びで笑いを増幅させている」ことが指摘されて解読が試みられ、その結果、日本での上映においてこの翻訳が反映されるようになった。また演説に伴うニュース中継の英語の同時通訳が演説の実際の内容より穏やかなものになっていることが指摘され、チャップリンがニュース映像に嘘があるかもしれない危険性を笑いに変えたと分析された[10]
製作

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出典検索?: "独裁者" 映画 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年10月)

もともとチャップリンは、『モダン・タイムス』の次回作として女密航者を主人公にした映画(ポーレット・ゴダード主演。1967年制作の『伯爵夫人』の原案となる)、ついでナポレオン・ボナパルトを主人公にした映画を構想していた。後者においては、ナポレオンが影武者と入れ替わってセントヘレナ島を抜け出し、市井の教師ナポレオンとなって革命に参加するも、島に残した替え玉が死んで、最後は悲劇的な結末を迎えるというものであった[11]。どちらも、時勢に鑑みるとあまり適当でない作品と考えられた[誰によって?]。

そこで現代に即し、ナポレオンをヒトラーに代えて映画を作ることとなった。

もちろん、この映画のアイデアは『小さな放浪者(英語版)』とヒトラーとのキャラクター上の類似から発展したものである。ユダヤ人の友人や同僚から聞き及んだ、1930年代を通じてエスカレートするドイツのユダヤ人迫害もモチベーションとなった。最終的に制作を決断したのは、アレクサンダー・コルダのプランを受け入れてからであった。チャップリンはそのプランを、バーレスクパントマイムを両立させる絶好のチャンスであると判断した[12]

チャップリンは例によってこの映画の脚本・監督をつとめた。1938年から1939年にかけてストーリーを制作し、1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻して始まり、祖国のイギリスも参戦した第二次世界大戦勃発後の2週間後から撮影を開始した。チャップリン・スタジオに加えて、ローレル・キャニオンなどロサンゼルス近郊の各所で撮影された。ユダヤ人街のシーンを2か月ほどかけて撮り終えた後、独裁者のシーンの撮影にとりかかった。独裁者の衣装を着けるとすぐに役になり切り口汚い言葉を発するようになったという[10]

ベンツィーノ・ナパロニを演じたジャック・オーキーは映画製作時はダイエット中であったが、チャップリンはオーキーがより太った体格になることを望み、昼食のゲストに招いてボリュームのある料理を目の前で食べてみせた。オーキーは抵抗したものの、結局料理を食べて太ってしまったという[13]

音楽については、チャップリンは『街の灯』以降自分で作曲していたが、今回に限っては気に入らないところの撮り直しもあって時間的に作曲の時間が立てられず(クランクアップ後、たっぷり時間をかけて作曲と編集に集中するのがチャップリンのパターンであった)、作曲のほとんどはメレディス・ウィルソンに委ねられた。しかしウィルソンは、チャップリンの作曲への貢献は、単に曲を口ずさみ、編曲者に作曲を任せる以上のものであったことを明かし、「チャーリー・チャップリンほど完璧という理想に完全に身を捧げた人に会ったことがない...彼の細部へのこだわり、彼が望むムードを表現するための正確な楽節やテンポに対する彼の感覚にはいつも驚かされた」と語っている[14]ドイツ軍占領下のパリを歩くヒトラー

チャップリンがヒトラーを題材に映画を製作することが知られると内外から反発の声が上がる。一部のチャップリンの評論では「『殺人狂時代』がアメリカ追放の原因である」と論評しているものがあるが、チャップリンに対する政治上の反発は『モダン・タイムス』の頃、もっと遡れば第一次世界大戦の頃から上がっており、また以上にあるように最大の収益を上げた『独裁者』に対しても政治的圧力や反発があった。

ヒトラーは1939年1月の国会演説において「反ナチーすなわち、反ドイツ映画の製作を企図しているというアメリカ映画会社の声明は、ドイツにおける反ユダヤ映画の製作を誘発するものでしかない」と批判した[15]。ドイツに対し宥和政策をとっていた英国からも圧力があり、英国外務省から派遣された職員がチャップリンに対し脚本の提出を要求するが、チャップリンはこれを拒絶した[10]。撮影を終了した6か月後[疑問点ノート]にはフランス第三共和政がドイツ軍によって陥落し(1940年6月パリ無血開城、休戦成立)、次いでイギリスへのドイツ軍の上陸が行われると言われていた。制作中に起こったヨーロッパでの戦争が、賛否両論を生んだ終盤のスピーチを挿入する動機となった。

当初案では、『独裁者』の最後は戦争が終わり、ユダヤ人と兵士が手に手を取って踊りを踊り、また中華民国と戦争をしていた日本も爆弾の代わりにおもちゃを落とし、戦争を終えるという設定をしていた。しかし、チャップリンはこれでは独裁者に対する怒りを表現できないとして台本を変え、最後の6分間の演説シーンとなった。この演説に対してはスタッフからも反対の声が強かった。営業担当からは「この演説で売り上げが100万ドル減るからやめてくれ」と言われたチャップリンは「500万ドル減ってもやる」と言って撮影を断行した(撮影はヒトラーのパリ入城の翌日となった)[10]

映画は1940年7月に撮影が完了した[16]。使用フィルムは完成版の41倍に及んだ[10](完成に至る過程で不採用となったいくつかのシーンを写真で確認できる。ヒンケルがビアガーデンでガービッチやへリングを前に自分のアイディアを展開する、盗聴器を使ってガービッチと2人でガソリーニ(ナパロニの初期の名前の一つ)夫妻の会話を盗聴する、へリングが持ち込んだ発明品の一つである飛行船を身にまとってはしゃぐ、赤ん坊に変装した6歳のスパイのノグチがガソリーニの軍隊をスパイしヒンケルに報告する、といったシーンである[17])。

チャップリンは後年、自伝において「ホロコーストの存在は当時は知っておらず、もしホロコーストの存在などのナチズムの本質的な恐怖を知っていたら、独裁者の映画は作成できなかったかもしれない」と述べている。なお、映画の撮影当時はドイツによるユダヤ人に対する迫害政策と、ゲットーへの強制移送はドイツ国内とドイツ軍の占領地で実施されていたが、ユダヤ人に対する大量虐殺はまだ行われてはいない。なお、ホロコーストという状況の中でユーモアを導入する試みは、ロベルト・ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』までの半世紀の間は見られない[注 10]
公開

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日本公開版でのチャーリーの演説シーン。

この映画の製作は、世界状況の緊張と軌を一にしている。前述のとおりチャップリンはラストシーンを再考するが、その際撮影が一時中断したときはマスコミから「戦況の悪化に恐れをなしてチャップリンは『独裁者』の撮影を断念したのだ」との憶測が流れた[10]。『独裁者』だけでなく、『The Mortal Storm』や『Four Sons』(どちらも日本未公開)のような他の反ファシズム映画は、アメリカとドイツが微妙な関係にありながら中立状況を保っていた中ではリリースできないだろうと予測されていた。


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