独立国家共同体
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ソビエト連邦の崩壊によって誕生したCISであるが、各新独立国の体制は整っておらず、軍事面および経済面において問題が噴出し、この調整を行うことがCISの最初の課題となった。

軍事面においては、CIS統一軍(ロシア語版)の創設を行うかが焦点となった。ロシアは各国による独自軍とCIS統一軍を併存させる考えを有しており、この構想には国力・経済力的に独自軍の整備が困難である中央アジア諸国が賛同していた。一方でウクライナは、ロシアとの間で黒海艦隊クリミアの帰属問題を抱え、独立を強く志向しており、この構想に反対であった。親ロシア派が支配する沿ドニエストル共和国の問題を抱えるモルドバアルメニアとのナゴルノ・カラバフ領土紛争を抱えるアゼルバイジャンが同調した。結局1992年5月にロシア連邦軍が創設され、同時に集団安全保障条約をロシア、アルメニア、中央アジア諸国が締結することで軍事的協力体制の構築が図られた[8]。こうした動きによってCIS統一軍は形骸化していき、1993年には消滅した[9][10]

CIS加盟各国および西側諸国にとって最大の懸案は、各地に置かれた膨大な軍事施設、特に核兵器とそれを遠方に撃ち込める弾道ミサイルの管理であった。1991年頃、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンに約1万2000発の長距離核、それら四ヶ国およびバルト三国を除く旧ソ連全域に約1万5000発の短距離核、併せて2万7000発の核弾頭が残されていたとされる[11]。特に核戦力がベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンによって大量に保管されていたことは脅威であったが、CISによってロシアが一括管理することが取り決められた。カザフスタンにあった大陸間弾道ミサイル(ICBM)用核弾頭650発は1995年4月に撤去。ベラルーシは核弾頭18発を1995年末、ICBM18基を1996年に撤去。ウクライナにはICBM176基、戦略爆撃機46、核弾頭は実に1592発が存在していたが、第一次戦略兵器削減条約リスボン議定書に基づいて、全てロシアの管理下に置かれた。またソ連の宇宙開発の中心であった、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地はロシアがカザフスタンに使用料を支払って維持することとした。

また経済面においては、ルーブル圏の維持が焦点となった。独立当初はソビエト連邦ルーブルが全ての国で流通していたものの、各国に創設された中央銀行がそれぞれ異なった経済政策を取りながらルーブルを発行したため経済的混乱が起こった。そこで1992年10月、ロシア、ベラルーシ、アルメニア、カザフスタン、ウズベキスタンキルギスの各国が改めてルーブル圏を創設することを決定し、協定を結んだ。しかし混乱は収まらず、1993年7月にはロシアが1992年以前に発行された旧ルーブル紙幣の流通を停止し、これを受けてウクライナとキルギスは独自通貨へと移行した。1993年9月には新ルーブル圏創設協定がロシア、ベラルーシ、アルメニア、カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンによって調印されたものの、わずか2か月後の11月には破綻が明らかとなり、アルメニア、カザフスタン、ウズベキスタンが独自通貨へ移行して、ルーブル圏にはロシア、ベラルーシ、タジキスタンが残るのみとなった[12]

1992年バルセロナ夏季オリンピックアルベールヴィル冬季オリンピックにおいては、統一した選手団を送ることとした。ジョージアが当時はまだ加盟していなかったため、地域名はCISもフランス語のCommunaute des Etats independants (CEI) も用いられず、英語のUnified Team にあたるフランス語のEquipe Unifiee からEUNと表記された。日本のマスメディアでは、漢字名で「独立国家共同体」或いはCISと呼ばれたりしたが、事実上「旧ソ連統一チーム」として扱われた。その後、1994年に開催されたリレハンメルオリンピック以降は各国がそれぞれ代表団を送ることとなり、EUN選手団は消滅した。

1993年にはCIS憲章が制定され、この憲章を批准した国家がCISの加盟国として認められることとなった。この年にはそれまで反露・親欧米路線を主張してCISへの参加を拒否していたジョージアが、国内の南オセチアアブハジア問題を契機として加盟した[13]。一方で初期加盟国のうち、アゼルバイジャンの憲章批准はやや遅れ[14]、またトルクメニスタンとウクライナは憲章批准を拒否して正式加盟を見送った。
ユーラシア経済共同体(EurAsEC)と民主主義と経済発展の機構(GUAM)

設立からしばらくはエリツィン政権下のロシアが安定しなかったこともあり、共同体としての連携は目立たず、その間に、新設国は概ね強大な権力を持った大統領が治める独裁国家となった。

1994年になると、それまで分離傾向が目立っていた加盟各国に統合の動きが現れ始めた。1996年にはベラルーシ、カザフスタン、ロシア、キルギスの4か国が統合強化条約を結んだ[15]

ジョージア、ウズベキスタン、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドバはロシアから距離を置く政策を採り、ウズベキスタンを除く4か国は、ロシアに対抗して1997年にこれら諸国の頭文字を採ったGUAMを結成した[16]。この組織には1999年にウズベキスタンも参加し、GUUAMと呼ばれるようになったが、2005年にウズベキスタンは脱退し、残った4か国は2006年にこの組織を「GUAM 民主主義と経済発展のための機構」へと改称した。これらの国は、2006年7月のCIS首脳会談に欠席している。

これに対し、ベラルーシ、カザフスタン、タジキスタン、キルギス、アルメニアはロシアとの緊密な関係を保ち、アルメニアを除く5か国で2000年10月ユーラシア経済共同体(EurAsEC)を結成した。こうしてCIS内に、ロシアを中心とする統合派と、ウクライナやジョージアなどからなる反統合派の2つのグループが成立することとなった。
バラ革命、オレンジ革命、チューリップ革命

2000年ウラジーミル・プーチンがロシア大統領となると、周辺国との連携を強化しようと試みるが、2001年アメリカ同時多発テロが発生したため、国内のテロ対策も踏まえ、対テロ戦争に同意してアフガニスタン戦争のため、アフガニスタンに近いウズベキスタン、タジキスタンへの米軍駐留を黙認したが、中央アジアでのアメリカの覇権が強まると考えられた。

プーチンは2003年イラク戦争には反対して米国と対立する。米国と西側諸国はイラクサッダーム・フセイン政権打倒を果たし、西欧のNGOなどと共にCIS域内の民主化勢力の支援を行った。この結果、ジョージア(バラ革命)、ウクライナ(オレンジ革命)、キルギス(チューリップ革命)で独裁政権が倒れて民主化が達成された。しかし、米軍が駐留していたウズベキスタンでは、市民運動が革命に繋がらずに失敗、その結果アメリカはウズベキスタンのイスラム・カリモフ大統領の怒りを買い、(アフガン作戦が一段落したこともあるが)同国から米軍を撤収させることとなった。

トルクメニスタン永世中立国となっていたため、2005年に加盟国から準加盟国へ移行した[4]

ウクライナやジョージアは北大西洋条約機構(NATO)加盟の意思を表明しているが、実現していない。以前よりCISへの嫌悪を隠さなかったジョージアは、2008年8月の南オセチア問題をきっかけとしてCISからの脱退を表明した[17]。このときロシアは南オセチアに爆撃を開始したジョージアに対して住んでいるロシア人を守るためと称して爆撃・侵攻したが、CISはこれに対して声明を発せず、また各国も沈黙(賛成も反対もしない)を通している。
ロシアのウクライナ侵攻「2022年ロシアのウクライナ侵攻」を参照

2022年2月24日、ロシアのプーチン政権はウクライナ全土への攻撃を始めた。対ウクライナ開戦後もCIS首脳会議を開催している。しかし「CIS諸国の大半はロシアによるウクライナ4州の併合宣言を認めていない」「ロシアと距離を置く動きが目立っており、求心力の低下が鮮明になっている」「CISの形骸化が進み、中国や米国と旧ソ連諸国の結びつきが一層強まる可能性が高い」などと日経新聞が報じた[4]


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