独ソ不可侵条約
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独ソ不可侵条約
調印するソ連外相モロトフ。後列右から2人目はスターリン
署名1939年8月23日
署名場所モスクワ
失効1941年6月22日(バルバロッサ作戦
締約国ナチス・ドイツソビエト連邦
主な内容相互不可侵および中立義務
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独ソ不可侵条約(どくそふかしんじょうやく、: Deutsch-Russischer Nichtangriffspakt, : Договор о ненападении между Германией и Советским Союзом, : German-Soviet Nonaggression Pact)は、1939年8月23日ナチス・ドイツソビエト連邦の間に締結された不可侵条約

天敵と言われたアドルフ・ヒトラーヨシフ・スターリンが手を結んだことは、世界中に衝撃を与えた。
名称について

条約は別名、署名したモロトフリッベントロップ両外務大臣の名前を取り、モロトフ=リッベントロップ協定(: Ribbentrop-Molotow-Pakt、: Пакт Молотова-Риббентропа、: Molotov-Ribbentrop Pact)、M=R協定(またはMR協定)とも呼ばれる。
概要

公表された条文は相互不可侵および中立義務のみであったが、この条約と同時に秘密議定書が締結されていた。これは東ヨーロッパフィンランドドイツとソビエトの勢力範囲に分け、相互の権益を尊重しつつ、相手国の進出を承認するという性格を持っていた。

独ソ両国によるポーランドへの侵攻、ソ連によるバルト諸国併合とフィンランドに対する冬戦争、ソ連によるルーマニアベッサラビアの割譲要求はこの秘密議定書による黙認の元で行われ、これに伴いイギリスフランスによるドイツへの宣戦布告を招いて第二次世界大戦を引き起こした。

この条約に基づいて独ソは占領地で独ソ共同軍事パレード(英語版)を行って独ソ通商協定(英語版)で武器の供与[1][2][3]も行うなど暫く準同盟関係を持ったが、1941年6月22日にナチス・ドイツがソ連に侵攻(バルバロッサ作戦)して条約は破棄された。
背景「東方生存圏」も参照

ヒトラーは著書『我が闘争』の中で、東方に地続きの植民地、いわゆる「東方生存圏」の獲得が必要であると述べていた。また国民社会主義ドイツ労働者党は反共を党是としており、ソビエト連邦に対しても強烈な批判を行っていた。しかしヴァイマル共和政下の政府は、国際的に孤立していたソ連とラパッロ条約を締結していち早く関係を構築し、軍事面でも密かに協力を行っていた。

国民社会主義ドイツ労働者党の権力掌握後はこれらの関係は断絶状態となり、反共のための外交活動もしばしば行われた。ドイツ国防軍情報部(アプヴェーア)局長ヴィルヘルム・カナリスは東の反共国家日本と連携してソ連を牽制する反ソ網の構築を目指し、国防軍や外務省内の親中派を押さえ込み(中独合作)、外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップも抱き込んで日独防共協定を実現させた[4]。また親衛隊により、大粛清の引き金となったミハイル・トゥハチェフスキー赤軍元帥の失脚工作も行われている。一方ソ連はフランスのいわゆる東方ロカルノ案に同調していたが、ドイツとポーランドの拒否によって決裂した1933年以降は、フランスとの二国同盟政策に協調的になった[5]。フランスとソ連は1935年に仏ソ相互援助条約(英語版)を締結し、事実上の同盟関係となった。このフランスとソ連の接近で二正面作戦を強いられることがドイツでは懸念された。

一方で駐英大使時代から反英感情を抱え、英仏とのミュンヘン協定もドイツの外交上の敗北としていたリッベントロップは、独伊日ソによって英仏に対抗する構想を固め始めていた。1938年1月にはヒトラーに対して反英構想の覚書を提出している[6]
独ソ提携交渉

しかし1938年10月のミュンヘン会談による対独宥和は、英仏がドイツのソ連侵攻を黙認しているのではないかという疑念をスターリンに与えた[7]。またこれ以降米仏でドイツのウクライナ進出に関する新聞記事が複数掲載された。1939年3月10日の第十回ソビエト共産党大会でスターリンは「(ドイツのウクライナ進出報道は)ソ連を怒らせてドイツと紛争を起こさせるのが目的である」と演説している[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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