狩り
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アフリカ

アフリカではヨーロッパによる植民地支配が始まった19世紀以降から現代までサファリと呼ばれる狩猟旅行やスポーツハンティングが盛んに行われている。サハラ砂漠以南の42のアフリカ諸国のうち25か国でスポーツハンティングが認められており、年間1万8500人を超える狩猟者がアフリカを訪れる[6]。また、正規の狩猟者以外によって行われる密猟が国際的な問題となっている[7]
アメリカ

アメリカは狩猟大国であり、2011年の時点で総人口の約6%に相当する1370万人が狩猟を行っており、20-30億ドルもの経済効果が推定されている[8]。1980年代からは狩猟者の数は減少傾向がみられたが、2010年代に入ってまた増加している。アメリカでは銃や弓矢、クロスボウが使われ、年間700万頭のオジロジカや2万頭のアメリカクロクマが狩猟される[9][注釈 4]
日本狩猟文鏡伝群馬県高崎市八幡原出土。東京国立博物館展示。平安時代の公家が狩猟へ向かう際の衣装(京都市の時代祭アイヌの狩人を描いたアイヌ絵イオマンテの準備をするアイヌの村。村人がの檻を囲んで踊り、神との別れを惜しんでいる。『鷹匠』鳥園斎 栄深スタジオで撮影された、猟装の慶喜(1870年代)「鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律」、「狩猟免許」、および「日本の獣肉食の歴史」も参照

日本列島においては旧石器時代縄文時代には狩猟が植物採集や漁労活動とともに主要な生業であったと考えられている。縄文時代にはシカイノシシを主要な狩猟獣とした生業が営まれていた[10]弥生時代、そして続く古墳時代になると本格的な稲作農耕が開始され、安定的な食料供給が可能になったため狩猟の重要性が低くなっていったと言われる。一方で農耕に伴なう害獣駆除などを目的とした狩猟は継続していたと考えられており、弓矢などの狩猟道具や矢が刺さったシカが描かれた土器や埴輪の存在から狩猟がなおも行われていたことが窺える[10]鷹狩も古代から行われており日本書紀には仁徳天皇の時代(355年)に鷹狩が行われ、タカを調教する専門職が置かれたという記録がある。

東北地方に住んでた蝦夷は騎乗しての狩猟の他に鷹狩も行っており、毛皮を交易品としてヤマト王権に売っていた。また狩猟で培われた騎射の技術が俘囚により武士へと伝わった。

農耕に適さない北方に住んでいたアイヌは狩猟採集生活を続けており、トリカブト毒矢や罠猟で大小様々な動物を狩り、毛皮を和人に売っていた。

奈良時代には仏教の受容により殺生・肉食が忌避されるに至ったとされる[注釈 5]。しかし、『延喜式』では地方に対して鹿皮や猪脂など狩猟獣の動物資源が賦課されていたり、『万葉集』ではシカの毛皮から内臓までを無駄なく利用している内容の歌が詠まれているなど、とくに庶民の間では狩猟活動が継続されていたと考えられている[11]。日本では肉食の禁忌令が何度か発令されたが、主に牛や馬など家畜を対象としたものであった[12]江戸時代にはももんじ屋と呼ばれる獣肉を販売する店が存在した[13]

貴族の間ではスポーツハンティングとしての狩猟が行われた。狩りに出かける際には動きやすい狩衣へ着替えたが、平安時代になると公家の普段着となっていった。

中世には武家の間でスポーツハンティングとして鷹狩が広まり、江戸時代には諸大名が鷹狩のため、鳥見などの専門職が定められた。

狩猟は木材生産・製材や鉱山経営、炭焼きなど山の諸生業のひとつとして行われていた一方で、動物資源の利用だけでなく畑作物への獣害対策としても行われた[14]。東日本では鉄砲(火縄銃)を用いた害獣駆除を目的とした狩猟が実施されていた[15]。また、東北地方では職業として狩猟を行う人々はマタギと呼ばれ、独特の習俗があった。対して、西日本ではわなを一部に組み合わせたしし垣が利用された[13]。中世や近世の日本における農民にとって鉄砲は農具であり、農耕と狩猟は密接な関係があったとされる[16]

明治時代になると狩猟の法制化が進んだ。1872年に「鉄砲取締規則」、1873年に「鳥獣猟規則」、1892年に「狩猟規則」、1895年3月27日に「狩猟法」が次々と公布され、狩猟期間や狩猟方法、狩猟鳥獣などが具体的に定められた[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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