狛江市
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注釈^ 回答総数832人。回答期間は1970年4月15日から同年4月20日の6日間。832人のうち764人が新市名を「狛江市」とするべきだと回答した。
^ 曲流(きょくりゅう)とは、河川が曲がりくねって流れること[18]
^ 江戸時代にはすでに30基ほどの古墳の存在が確認されていたとされる。1823年の『武蔵名勝図会』には亀塚古墳とその周辺の古墳3基が「和泉村大塚の図」として記載されているほか、経塚古墳が泉龍寺を描いた挿絵に写っている(挿絵は下記)。
^ この調査は1951年に墳丘の一部が一部切削されているのを発見した周辺住民の有志が主体となって、古墳を保護するために緊急で行なったものである[40]。しかしながらその後住宅の開発などによって徐々に切削は進行し、現在ではほぼ全てが失われた。唯一現存する墳丘の一部と前方部は古墳公園として整備されている[40]
^ 発掘当時はこの鏡の存在を根拠に狛江古墳群は高句麗系の古墳群と推定されたが、後の研究でこの鏡は後漢の時代の船載鏡をもとに造られたものであることがわかった[21]。さらに、出土した鏡と同一の型から造られた鏡が大阪府の古墳から2枚見つかったことから[21]、この鏡は中国から畿内の有力豪族にもたらされた鏡が、長い年月をかけ亀塚古墳の埋葬者に渡ったとされる[40]。これらから、埋葬者が畿内王権と強い繋がりを持った人物であったと推定された[21]
^ 日本考古学会元会長で『狛江の古墳1』の編集者の1人[42]
^ と、されているが狛江郷は後述する通り8世紀初期に成立したと記述があるので、半世紀ほどのずれがあり埋葬者が狛江郷の長であったかには疑問が残る。
^ 狛江郷の成立時期については、『倭名類聚抄』という平安時代中期の辞書における、「狛江郷」の項から。しかしながらこの倭名類聚抄よりも先に、『続日本後紀』が成立した。
^ この村は狛江村構成6村には属さない。これは狛江村が成立する前に和泉村と合併したからである。
^ 和泉村は現在の和泉本町とその周辺にあたり、市役所所在地であるなど現在でも狛江市の中心となっている。なお、そもそもこの村が6村のうち最も広い面積だったため必然とも言える(そのため和泉地域は住居表示実施時にいくつかに分割された)。
^ この頃まだ彦根県は存在しないことに注意。
^ これは長浜県が設置された12日後のことである。
^ 左の日付を含め、以下より記載する日付は特記なきかぎりすべてグレゴリオ暦によるものである。
^ なお、村長が辞職した後、北多摩郡より派遣された書記官が業務に当たっていたが、小川清平は4月15日に、石井正義は6月7日にそれぞれの職に復帰している[75]
^ のちの狛江市立狛江第一小学校。当時は狛江駅前に木造の校舎が建っていた。
^ 現在の狛江市立狛江第一小学校にあたる。
^ 動画は2020年10月1日に市制50周年を記念してYouTubeで公開された。
^ カドミウムは重金属で有毒物質として知られる。日本ではカドミウムに公害としてイタイイタイ病が社会問題となった。詳細は当該記事を参照。
^ この23年後、2018年春のダイヤ改正により狛江駅は準急停車駅となった。
^ a b 市は市制50周年を特集した『広報こまえ 10月1日号』6面の年表に「2001年10月に公式ホームページを開設」としているが、Wayback Macineを用いて確認すると少なくとも2001年2月1日には開設していることが確認できる。
^ 日付はグレゴリオ暦による。時期については同年5月だとするものもある。
^ 狛江町が選挙などで混乱している中、調布町と神代町は合併し調布市となった。
^ なお、狛江市の市域は一部多摩川南岸の土地を含み、川崎市の土地は一部多摩川北岸の土地を含む。かつての多摩川の流れの名残である。明治時代には多摩川の氾濫によって狛江村の村域が変更されている。歴史駒井町も参照。
^ 多摩川サイクリングコースの狛江市区間は長らく舗装されておらず、悪路となっていたが、2021年に全ての区間が舗装された[157]
^ 六郷領は土地が低く、領域内の多摩川から取水しても水が隅々まで流れなかったため、上流の六郷領との高低差が22メートルある和泉村に取水口が設置された[161]
^ 交差点・水神前付近で取水された水は、かつては現在六郷さくら通り、いちょう通り、世田谷通りとなっている部分の下を通っていた。いちょう通りの東の緑道部分と世田谷通りの南の緑道部分がかつての用水である[163]。なお、いちょう通りから世田谷通りまでの区間は野川の流路と共有していた[165]。また、これらの道路の交差点名「田中橋」「一の橋」「二ノ橋」は全てこの用水に架かっていた橋に由来する名称である[166]。取水口のすぐ近くに鎮座する水神社(すいじんじゃ)には水速女命が祀られているほか、小泉次大夫も合祀されている。祠は1889年に用水の恩恵を受けた13か村により奉納されたもの[167][168]
^ 市が枝豆を推している理由は、狛江市の土壌が荒木田土と呼ばれる枝豆作りに適している土であることから、枝豆が市内で多く栽培されていて、市の特産品としての地位を持つことにちなむ。[170]
^ ただし、越水による洪水被害の場合にのみ適用される情報で、浸透侵食等による被害は以下の基準は適用されず、狛江市により都度情報提供や避難情報の発令がなされる[180]
^ この場合浸水しないとされている場所にはニトリ狛江ショッピングセンター周辺、狛江第一中学校周辺、狛江市民体育館周辺などがあるが、四方全てが浸水するとされているのでこれらの地域は陸の孤島となる[187]
^ 最新の値はこの記事の先頭の左側に表示されるインフォボックスを参照。
^ この値は住民基本台帳を参考にした値であり、推計人口ではないことに注意。
^ 居住者
^ 市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計
^ 猪駒通り沿いにあった商店街。2022年現在でもまだ商店がまばらに存在するが、シャッターも目立ち、ほぼ壊滅状態にある。
^ 現在も狛江駅に不自然に空く2つの穴の東側は、道路を通すために作られたものである。
^ いずれの町域以外のもの
^ 和泉小学校に高等科が併置されたため1897年改名。
^ 1941年4月の国民学校令により改名。なお、関東大震災により校舎が焼失したのは1923年9月1日で、当時狛江尋常高等小学校。戦争による焼夷弾で校舎が全焼したのは改名から4年経った1945年5月25日の空襲の日。
^ 狛江小学校へは1947年4月改名。
^ 以降、初出でない学校名は全て狛江村立(町立・市立)の部分を省略して表記する。
^ KoKoA(ここあ、KoまえのKoどもみんなAつまれ)
^ 尋常高等学校は現在の中学1年生から2年生にあたる児童を教育していた学校。
^ 旧制の中学校。現在の高等学校にあたる。
^ 特に戦後に移住してきた新住民。逆に昔からの住民は、新線開通に伴う地域の発展や地価上昇に期待してそれほど反対活動を行わなかった[328]
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