特別支援学校
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肢体不自由者一 肢体不自由の状態が補装具[注釈 14] の使用によつても歩行、筆記等日常生活における基本的な動作[注釈 15] が不可能又は困難な程度のもの
二 肢体不自由の状態が前号に掲げる程度に達しないもののうち、常時の医学的観察指導[注釈 16] を必要とする程度のもの
病弱者一 慢性呼吸器疾患腎臓疾患及び神経疾患悪性新生物その他の疾患の状態が継続して医療又は生活規制を必要とする程度のもの
二 身体虚弱の状態が継続して生活規制を必要とする程度のもの

なお、自閉症についても、知的障害を伴う場合は、表における知的障害者の程度の障害を併せ有する状態に応じて、特別支援学校(知的障害)で教育される場合があり、実際に、多くの自閉症を伴う知的障害の児童生徒が特別支援学校に在籍している。また、病弱・身体虚弱などを伴う自閉症の場合は、それぞれの状態に応じて、特別支援学校(病弱)などにおいて教育を受けることを考慮する必要がある。

ただし自閉症は、就学前に適切な療育等を受けていない場合には、基本的には知的発達の遅れがないにもかかわらず、知的障害があると見なしてしまう場合があるとして、誤って自閉症を特別支援学校の対象としないよう注意を促している[8]

知的障害を伴わない自閉症の他、情緒障害言語障害学習障害(LD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)についても特別支援学校に入学可能な障害の程度に該当しない。
就学先を決定する仕組みの改正

平成14年(2002年)以前は、一定の障害のある者については例外なく特別支援学校に就学することとされていた。しかし、平成14年(2002年)の改正により、認定就学制度が創設され、小中学校の施設設備も整っている等の特別の事情がある場合には、例外的に特別支援学校ではなく認定就学者として小中学校へ就学することが可能となり、小中学校に在籍する障害者の数は増加を続けていた。

さらに、平成25年(2013年)の改正により、一定の障害のある児童生徒は原則として特別支援学校に就学するという、これまでの学校教育法施行令における基本的な考え方を改め、市町村の教育委員会が、個々の児童生徒について障害の状態等を踏まえた十分な検討を行ったうえで、小中学校又は特別支援学校のいずれかを判断・決定する仕組みに改められ[9]、この後に障害のある就学予定者の公立小学校への就学が大幅に増加した。

このように、就学先は最終的に市区町村教育支援委員会が決定するため、一定の障害があったとしても必ずしも特別支援学校への就学が指定されるわけではない。調査・審議対象となった障害者のうち、特別支援学校に入学可能な障害の程度に該当すると判定されるのは2割に満たない程度であるが、以前は該当する者は原則として特別支援学校に就学することになっていた。しかし、就学先を決定する仕組みが改められたことに伴い、仮に特別支援学校入学可能な障害の程度に該当しても、特別支援学校への就学が指定されるのは7割程度まで低下している。結果的に、実際に特別支援学校へ就学するのは、審議対象となった障害者の13%程度である[10]

なお、学校教育法施行令の改正により、就学基準に該当する障害のある者は特別支援学校に原則就学するという従来の就学先決定の仕組みを改められたことに伴い、前項の学校教育法施行令第二十二条の三で定める障害の程度の表はいわゆる「就学基準」としての機能は持たなくなったが、「特別支援学校に入学可能な障害の程度」としての機能は引き続き有している[6]
歴史「特別支援教育#経緯」も参照

1875年(明治8年)ごろ、京都府下の第十九小学校(のちの待賢小学校を経て現在の二条城北小学校)に韻唖教場(いんあきょうじょう)が開設され、まもなく盲児も教育するようになった。教員の古河太四郎が、ホームサインをも含めて自ら編み出した手話を用い聾児指導していた。1878年(明治11年)5月24日、京都盲唖院が開校され古河太四郎が初代院長。しかし寄附による財源を基にしていたため学校経営が不安定となり、翌1879年(明治12年)4月、設置者が京都府に移管され京都府立学校となった。

1875(明治8)年ごろ、東京でも楽善会という篤志家グループによる、盲人を教育するための訓盲所の設立運動が始まった。翌1876(明治9)年3月、府知事名で許可され、1878(明治11)年7月、築地に校舎の建設工事開始。1880(明治13)年2月、校名を「楽善会訓盲院」と定め授業開始、同年6月、聾児も加えた。1884(明治17)年、校名を「楽善会訓盲院」と改めたが事業発展に伴い経営が苦しくなり、1885(明治18)年、文部省の直轄学校となり「東京盲?学校」と改称。のちに東京教育大学の附属学校となり、現在は筑波大学附属視覚特別支援学校筑波大学附属聴覚特別支援学校となっている。

文部省では1890年(明治23年)10月の改正小学校令の制定により、盲?学校の設置・廃止に関する規定が設けられた。聾学校の数も次第に増加し、1897年(明治30年)に4校が、1907年(明治40年)に38校と増えた。

盲と聾というまったく異なる障害を同一学校で教育する問題が指摘され、文部省は1909年(明治42年)4月、直轄学校官制を一部改正、新たに東京盲学校を設置。翌年3月、従来の東京盲?学校を廃し東京聾?学校を設置。これが盲・聾分離の先鞭となった。1923年(大正12年)8月、「盲学校及聾?学校令」の勅令が制定、これに基づく文部省令「公立私立盲学校及聾?学校規程」も公布。これらの措置により、初めて盲?学校が盲学校と聾?学校という2つの学校に分離されることになった。

1932年(昭和7年)東京市立光明学校(現在の東京都立光明学園)が世田谷区に設立される(日本初の肢体不自由児学校)[11]

1947年(昭和22年)3月、教育基本法と同時に公布された「学校教育法」により聾?学校は「聾学校」へ変わり、聾児への義務教育を行う学校となった。またこのとき、知的障害者、肢体不自由者、病弱者(身体虚弱者を含む)のための「養護学校」の制度が作られた。こうして「盲学校」「聾学校」「養護学校」3種の学校が、特殊教育(現在の特別支援教育)を行う学校として法制化された。

1979年以前の養護学校は義務教育機関ではないため軽度障害者のみを対象とし、重度・重複障害者は就学猶予や就学免除として、自宅や障害者入所施設に待機していた。1979年の義務教育化以降、重度・重複障害者も養護学校へ就学となったが、地域の普通学校では障害児排除もみられた。いまだ分離教育であるとの批判も継続してみられる[12]。一方で、小学校・中学校など普通学校において障害児学級を設置して専門の教員を置いて受け入れたり、普通学級に障害児を受け入れる場合も見られる。

一方、養護学校の義務教育化により重度・重複障害者の在籍比率が増加。軽度障害の在学生に教育が充分に行えない状況も生じた。このため一部の都道府県では、軽度障害者の生徒に対する職業教育専門教育の場と位置づけた高等養護学校(現在は、高等特別支援学校もしくは高等支援学校。


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