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釜山にある?英実科学公園に設置されている測雨器のレプリカ。

測雨器(そくうき、朝鮮語: ???、チュグギ)とは、15世紀中ごろに李氏朝鮮において発明された雨量計。史料に残る標準雨量計としては最古のものとされる[1]。シンプルな円筒型の器に雨水を溜め、水の深さを物差しで直接測って記録する。朝鮮全土に設置され、厳格な制度に則って降雨量測定に用いられた。測雨器による観測は1442年に始まり、戦乱による長期の中断を挟みながらも数世紀にわたって継続したが、朝鮮王朝の終焉とともに途絶え、近代的な気象観測制度に取って代わられた[2]

2010年時点で現存する測雨器は、韓国宝物第561号に指定されている錦営測雨器(?????、1837年製作)のみである。かつて忠清南道公州観察司に設置されていたもので、「錦営」とは道観司が起居していた庁舎を指す。そのほか、測雨器の台石である測雨台(???、チュグデ)が数基現存する。
歴史朝鮮王が長く起居した昌徳宮などを描いた『東闕図(朝鮮語版)』(1820年代)。宮内には、測雨器3基を始めとする気象観測機器が描かれている[3]

朝鮮半島の王朝は気象天文のような自然現象に大きな関心を持っていた。伝統的に農業国であった朝鮮では、農事暦の編纂(観象授時)が王朝の重要な役割だったためである。また当時、日照りや洪水のような災害は統治者に対する天譴とみなされたためでもある。そのような事情は中国でも同様だったが、乾季と雨季の区別がはっきりしており、たびたび降雨不足に悩まされた朝鮮においては、気象観測の重要性は中国以上であった[4]。朝鮮歴代の正史である『三国史記』や『朝鮮王朝実録』には気象現象の体系的な記録が残されている。李氏朝鮮高麗から気象・天文観測を管轄する部署である書雲観(後に観象監として拡大強化された)を受け継ぎ、風・雨・霧・雲などの量的な測定を行っていた。この気象学への傾倒が李朝代に独自の発展を生む原動力となったと考えられる[4][5]:121[6]:196[7]:165-167

測雨器の開発が行われたのは世宗の治世(1418年 - 1450年)である。『朝鮮王朝実録』によれば、世宗7年(1425年)に干ばつが起こり、各地のの官庁に対して降雨量を戸曹に報告するよう指示が下された[7][8]:146。しかしその測定法は、土塊を握って湿り具合を調べ、どの深さまで水が浸透したかを調べるというものだった。土壌の乾燥度によって雨水の染み込み方は変わるため、この方法では正確な測定を行うことができない[6][7]。『実録』世宗23年(1441年)8月18日条が伝えるところでは、戸曹はこの問題を解決するため、降雨量を測定するための器と台座を書雲観に開発させる建議を行い、世宗の認可を得た[2][9]。この時試作された測雨器は書雲観に設置された。牙山市天安牙山駅前に立てられた?英実の銅像。測雨器の傍らで周尺(物差し)を扱っている。

世宗の言葉として『実録』が伝えるところでは、容器で雨量を測る方法を初めに行ったのはその世子(後の文宗)である[5]:124。文宗はかねてから日照りを心配し、宮中で降雨量の測定を試みていたという[9]。現代韓国では測雨器を発明したのは世宗に仕えた工匠の?英実だと信じられているが[10]、それを裏付ける史料は?氏族譜と口伝に過ぎない[9][11]。科学史家の全相運は、?英実をはじめとする技術者や書雲観の官吏が測雨器の開発に携わったとしても、身分の低い彼らによる貢献は正当に評価されなかっただろうと推測している[12]

その後、『実録』によれば1442年5月8日に、全国的に降雨量を記録する制度が正式に制定された。「測雨器」の名が登場したのもこのときである[5]。各道・・県の官舎に測雨器が設置され、測定の手順について詳しい規定が定められた[9]。この観測制度は現代の科学的方法に通じるものであったが、忠実に実行されていたのは成宗代(1469年 - 1495年)までで、その後は次第に用具・手順などが乱れていった[5]:125-127。

やがて文禄・慶長の役(1592年 - 1598年)および丙子の乱(1636年 - 1637年)が起こると、各地に設置された測雨器はすべて失われ、約150年にわたる雨量記録もほとんどが散逸した[5]:128。例えば、1592年以前のソウルの降雨量の記録は1530年、1542年、1586年の3年分しか残っていない[2]。戦乱が収まった後も、疲弊した朝鮮王朝には測雨器事業を再展開することができなかった。この時期可能だったのは、一部の河川に設置された水標(水位計)を通じて降雨量を推し量ることのみであった。水標は尺・寸・分の目盛りが刻まれた柱で[12]、ソウルでは清渓川漢江に設置されていた。1636年から1889年(高宗26年)までのソウルの降雨量を記録した『祈雨祭謄録』には水標の観測記録も残されている[5]:127。

粛宗(在位1674年 - 1720年)代の天文学研究の復興を経て、18世紀の英祖(在位1724年 - 1776年)時代に至って測雨器制度は復活した。『増補文献備考』に伝えられる英祖の言葉によれば、英祖は『実録』から学んだ測雨器に「至極の理致」を見出し、正確に復元して八道および二都(当時の松都、江都)に設置するよう命じた[9][13]


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