物言い
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1時間に及ぶ協議の末「勝負預かり」となった。この間に元気を取り戻した瀬平は、次の一番を無事に裁いたが、6日目、7日目と大事を取って休場、8日目より再出場した。ところが9日目の朝、自宅の布団の中で急死。太刀山に押し潰されたことが原因による心臓麻痺だった。

1906年1月場所4日目、小結初代朝汐?前頭3枚目若左倉戦。両者立ち上がるや、若左倉が猛然と張り手の雨あられ、それも真っ向から張りまくる。朝汐も憤然と応戦し、土俵上は殺気立った。その時行司木村小市は「勝負あった」と両者の間に割って入り、軍配を朝汐に挙げた。小市は「張り手は、協会において厳禁とするところなり」と宣言し、朝汐に勝ち名乗りを上げた。従って若左倉の反則負けとなったが、物言いがつき、検査役より「越権行為だ」とか「なぜ勝ち名乗りを上げたのか」と小市を追求する中「行司の態度は当然」との意見もあった。協会から「正面からの張り手」「拳固にて打つこと」の厳禁の触れが出たばかりで、その矢先だった。まだ規則に不徹底だったため、裁きが決まらぬまま「協会預かり」にした。のちに協会は「行司の行為は独断であり、勝ち名乗りは検査役を無視した越権行為」と行司の責任だったとした。小市は進退伺いを提出したが慰留され、判定は引き分けで決着した。

大正時代

1914年5月場所5日目、関脇2代朝潮?前頭11枚目金ノ花戦。金ノ花の突っ張りに後退した朝潮が上から叩きながら土俵を割った。行司の軍配は朝潮に挙がったが、西方控えの横綱太刀山から「朝潮に踏み切りあり」と物言い。東方控えの前頭8枚目綾川は朝潮の勝ちを主張、検査役も意見が割れて決着がつかず、2時間後検査役たちは「協会の二階で協議する」と土俵を去り空白にして意見を闘わす間、土俵周辺は怒声罵声の渦、ついには土俵上に上がって演説する男が現れたりして大混乱。この場所休場していた常陸山2代梅ヶ谷の両横綱も駆けつけ、3時間40分後「とりあえず勝負は常陸山と梅ヶ谷が預かり、のちに発表する」と決めて、その後の取組を進め、物言いから5時間20分後の午後9時40分、朝潮の丸星、金ノ花の半星、勝負預かりで何とか決着した。

1921年5月場所5日目、横綱大錦?前頭5枚目鞍ヶ嶽戦。大錦が寄ると鞍ヶ嶽が左へうっちゃり17代木村庄之助は鞍ヶ嶽に軍配を挙げたが物言いがつき、検査役、控え力士とも鞍ヶ嶽の踏み切りを認めたので、行司差し違えとなった。庄之助は打ち出し直後「本日の失態は本来なら切腹すべきところ」と、辞表を友綱取締(元前頭海山)に提出。協会役員、大錦、鞍ヶ嶽らの慰留に応ずることなく、53年間務めた相撲界を去った。

昭和時代

1929年1月場所5日目、関脇玉錦?前頭筆頭真鶴戦。真鶴がもろ差しで、玉錦が閂(かんぬき)にきめる。膠着状態が続き2度水入り、3番後取り直しの相撲が制限時間10分を経過した。再戦は両者の呼吸が合わず、検査役が真鶴に注意した。真鶴はこれを不服とし支度部屋へ引き揚げてしまった。周囲の説得もあり、呼び戻された真鶴は玉錦と取り直し、玉錦が勝利した。

1938年1月場所9日目、横綱双葉山?関脇両国戦。48連勝中の双葉山が寄り切った相撲に、控え力士の玉錦、男女ノ川から双葉山に勇み足ありと物言いがつき揉めに揉め、協議の終息には26分を要した[12]。双葉山の69連勝が48で止まっていたかもしれない歴史的物言いと語り継がれる。結果は、取り直しの末双葉が吊り出しで49連勝。現存する写真では双葉山の右足は大きく踏み越しているが、その前に両国の体は完全に死に体だった。

1948年10月場所6日目、横綱前田山?小結力道山戦。前田山は行司の軍配を受けながら取り直しの判定が不服で、指の負傷を理由に支度部屋へ引き揚げたため、「取り直し」でも「痛み分け」でもなく取組放棄とみなされ、力道山の不戦勝となった。

1951年9月場所12日目、横綱東富士?大関吉葉山戦は2度の物言いがついた。最初の取組は東富士に軍配が挙がったが、協議の結果は同体で取り直し。取り直しの一番は左四つがっぷりで膠着状態が続き水入り。再開後、吉葉山の一気の寄りに東富士が土俵際で捨て身のうっちゃりを見せた。吉葉山に軍配が挙がるも物言いがつき、協議の結果またも同体。実はこの日、東富士は風邪をこじらせ40度の高熱だったが、無理を押して出場。3度目の取り直しになろうかと言うところ、東富士はまだ取る意思を見せるが検査役がこれ以上の取組は危険と判断し、吉葉山の同意を得て勝負預かりとなった。

1953年1月場所6日目、物言いの協議結果を初めて場内放送で説明した。

1954年9月場所7日目、関脇大内山?前頭筆頭出羽錦戦。大内山は出羽錦の食い下がりを警戒して、長い腕でのど輪を押し上げて攻める。のけぞりながら出羽錦は何とかもろ差しの体勢になり、右ふところに食いついた。これを嫌って大内山は詰まりながら右から小手を抱え、大きく小手投げを打つと、出羽錦の左ひざが折れて砂に触れたか触れないか微妙なところで、行司13代木村庄太郎は「勝負あり」と軍配を大内山に挙げた。軍配を見た大内山は当然のように力を抜く。軍配を見ていない出羽錦はそのまま大内山を寄り切った。勝ったと思った出羽錦はそのまま西方の二字口に立った。そのとき行司溜まりの西岩検査役(元前頭鯱ノ里)が物言いをつけ「出羽錦につきひざはない」と主張。立浪(元横綱羽黒山)、湊川(元前頭十勝岩)、出来山(元大関汐ノ海)の3者とも同意見、正面の検査長時津風(元横綱双葉山)は泰然と座ったまま。協議の結果「取り直し」が妥当と判断したが、時津風の裁定は大内山が小手投げを打つ体勢から再開する「組み直し」という奇妙な結論に達した。再開後、大内山がうっちゃりで勝ったが、後味の悪い一番となった。この時詰め腹を切らされたのは行司庄太郎で、翌8日目より謹慎となった。同様の前例として1941年5月場所13日目、大関前田山?関脇照國戦がある。

1958年1月場所6日目より、勝負検査役は物言いの協議にワイヤレスマイクを使用することにした。

1958年9月場所初日、前頭7枚目北の洋?横綱栃錦の物言いで立行司19代式守伊之助が土俵を叩いて自分の軍配の正当性を主張した。いわゆる「ヒゲの伊之助涙の抗議」である。なお、この北の洋?栃錦戦の一件で、次の1958年11月場所より物言いに行司も検査役の協議に加わり発言できるようになった。

1964年5月場所4日目、序ノ口高見山?吉瀬川戦。吉瀬川は足の大きさ18の巨漢だが気が弱く、怖くなって立ち上がるといきなり後ろを向いて逃げ出し土俵外へ、勝負検査役は「待った」と見なしてやり直し。再び逃げ腰の吉瀬川を高見山は優しく押し出した。

1964年9月場所3日目、横綱大鵬?前頭3枚目若浪戦の勝負判定などで時津風理事長が全勝負検査役を叱責。これを機に勝負検査役は幹事制を設けることとなった。

1964年11月場所12日目、前頭11枚目荒波?同5枚目海乃山戦で、荒波が海乃山のマゲをつかむ反則を犯したが、行司軍配は荒波に挙がり反則ながら勝ちとなった。この一番で湊川(元前頭十勝岩)検査長の処置が不適切と、取締会がこの場所に限り湊川を譴責処分とした。

1965年1月場所より物言いは携帯マイクをやめて、正面の検査役が経過説明をすることになった。

1967年11月場所9日目、前頭筆頭長谷川?横綱佐田の山戦。佐田の山の廻しがほどけたため、立行司の22代式守伊之助が、両者の背中を叩いて「廻し待った」で両者の動きを止めようとしたが、佐田の山が気づかずに長谷川を吊り出した。物言いがつき協議の結果、「廻し待った」をかけた時の体勢から取り直し、佐田の山が勝利した。しかし再開前と再開後の長谷川の差し手が変わっていた。「廻し待った」がかかった時点での佐田の山の差し手は「左差し」だったが、再開時には「もろ差し」の体勢になっていた。長谷川は組み手の違いを主張せずに敗れた。取組後、伊之助は「差し手が見えなかったので二子山(元横綱初代若乃花)、岩友(元前頭神東山)両検査役に聞いたところ(佐田の山の)もろ差しと言ったので」と弁明した。差し手を確認せず「廻し待った」をかけた伊之助にも非はあるが、長谷川自身にも問題があった一番だった。

1968年9月場所初日、十両最初の和晃?朝嵐戦。制限時間いっぱいから朝嵐が土俵内に落ちていた箒の切れ端を捨てるために土俵外に足を踏み出して負けにされた一番。陣幕審判長代行(元前頭島錦)の説明は「制限時間後土俵外に出たのは勝負規定違反なので、和晃の勝ちとします」だったが、実際にはこう言う規定は制定されていない。


1970年7月場所12日目、前頭5枚目黒姫山?同8枚目大雄戦で、行司が即退場処分を受けるという前代未聞の珍事が起きた。制限時間いっぱいから黒姫山が立つと、大雄は一瞬「待った」という仕草を見せたが、そのまま力を入れ直し右を差した。ところが「待った」と思った黒姫山が力を抜いてしまい、そのまま大雄が寄り切った。この間、行司2代木村今朝三は完全に棒立ち、「待った」も「ハッケヨイ」の声も発しなかった。5人の審判員は協議の末、今朝三を即刻退場処分とした。審判規定行司の項第7条「両力士が立ってからは、“待った”または“ハッケヨイ”の声をなす」の職務を怠ったためだった。
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