牛頭天王
[Wikipedia|▼Menu]
伊利之は『新撰姓氏録山城国諸蕃の八坂造に、意利佐[注 8]の名がみえ、祇園社附近はもと八坂郷と称していた。この伝承にそのまま従うと「日本における神仏習合以前に、朝鮮半島ですでに日本神話のスサノオが信仰されており、その信仰をもちこんだ渡来人が住みついた後になってから牛頭天王と習合した」ということになるが、川村湊や真弓常忠は「朝鮮半島より渡来した人々が住みついて牛頭天王を祀ったが、その後、日本神話のスサノオと習合した」と解釈している[6][8]
陰陽道の天刑星との習合

陰陽道では天道神とされ、天刑星、吉祥天の王舎城大王、商貴帝と同一視された[5][8]

また、蘇民将来説話の伝播にあたっては地方で活動していた民間の陰陽師の活動も大きかったと考えられる[12]
神仏習合

これらのほか、牛頭天王は薬宝賢明王と称し、薬師如来を本地仏とする[13]。天竺の祇園精舎守護神であると説明される[5]。また直接の習合は説かれていないが、牛頭天王と観音菩薩との深いつながりを示唆する縁起もある[14]
その他

早くに『中外抄』の中で、祇園天神は神農ではないかとする説が提示されている[14]。東密の事相書である『覚禅鈔』にも神農との同体が説かれている。また、同じ牛頭の武神であり、秦氏が日本に伝えたとする道教の兵主神=蚩尤と関連するとの説もある。
神戸市兵庫区の牛頭天王

神戸市における民族信仰の変遷ほか(福原会下山人 郷土史話シリーズにつぎのような記述がある。

今日のような安全な道路となつたのであるが、昔日の天王谷越の有様を見てみよう。天王谷の名のおこりについてはつぎのような伝説がある。天王川の上流である水源地東にある小部に字渦輪という小盆地(燈篭茶屋)があり、その西の岡の上に牛頭天王の社がある。

むかし、この地には一面の大湖沼があつて、悪竜が棲み人を害したが、その時午頭天王が現われて湖堤の口を切り開たので、竜は雲に乗つて再度山の蛇谷に移住した。午頭天王が切り開いたところを竜の口といい、いまもなお残つていると伝える。このことは、弘安年中(1278?)にこの地を開柘して田・地を作つた東小部の前田家に蔵する子文書に明らかである。これからのち、伝説のままに牛頭天王は、産土神としてあがめられ、この谷を天王谷といい、川を天王川と呼んだのである。
歴史阪神大水害附図 - 昭和13年の阪神大水害附図にも、牛頭天王の記載がある。

牛頭天王は、古代にさかのぼる蘇民将来の説話が陰陽師などによって伝承されるうちに、日本古来の霊信仰とむすびついて行疫神とみられるようになり、その霊力がきわめて強力であるがゆえに、逆にこれを丁重に祀れば、かえって災厄をまぬがれることができると解されて除疫神としての神格をもつようになったものである。荒魂和魂へと転換されたわけであるが、日本神話では天上を追放された「荒ぶる神」スサノオとの習合がこの過程においてなされたものと考えられる[12]
『備後国風土記』の蘇民将来説話

『釈日本紀』に引用された『備後国風土記逸文[15]に「武塔天神」と「蘇民将来」兄弟の話が出てくる。『備後国風土記』は奈良時代初期に編纂された備後国広島県東部)の地理書であるが、現在は鎌倉時代の逸文として引用のかたちで伝存したものである。ここでは、牛頭天王は「武塔天神」と同一視され、親切に迎え入れた兄の「蘇民将来」に対して疫病を免れしめ、その一宿一飯の恩に報いるために蘇民とその娘に除難の法を教えたと記している。本文に「批則祇園社本縁也」と記述された説話がそれであり、これは文献にあらわれた「蘇民将来」説話の最古の例である。
平安時代辟邪絵(奈良国立博物館)で牛頭天王をつかんで食べる天刑星

平安時代の絵画『辟邪絵』(奈良国立博物館蔵)には、疫神や牛頭天王をつかんで食べる天刑星(疫神を食べる道教の神『封神演義』では桂天禄が封神された)の絵と詞が描写されている。

この時代には、都市部でさかんに信仰されるようになり、祇園社の御霊会(祇園祭)において祀られるようになったといわれる。祇園御霊会がさかんになったのは10世紀ころからで、夏に流行しがちな疫病を鎮める効果が求められた。京都では感神院祇園社に祀られ除疫神として尊崇され、祇園社のある地は「祇園」と称されるようになった。

なお、当時辞書として編まれた『伊呂波字類抄』(上述)の「祇園」の項では、牛頭天王は天竺北方の「九相国」の出身で、またの名を武答天神といい沙掲羅竜女を后とし八王子ら84,654神が生まれたとしている[16]
八坂神社由来

鎌倉時代末に成立した『社家条々記録』には「別記云 貞観十八年 南都円如先建立堂宇 奉安置薬師千手等像 則今年夏六月十四日 天神東山之麓祇園林ニ令垂跡御座」とあり、また『群書類従』神祇部所収の「二十二社註式」には「牛頭天皇 初垂迹於播磨明石浦 移広峰 其後移北白河東光寺 其後人皇五十七代陽成院元慶年中移感神院 託宣曰 我天竺祇園精舎守護神云々 故号祇園社」とある。

これらによれば、牛頭天王は、天竺では祇園精舎の守護神であったが、日本では、最初は播磨国明石浦(兵庫県明石市)に垂迹、ついで広峰(兵庫県姫路市)に移り、その後、京都東山北白川東光寺へ、陽成天皇貞観18年(876年)に東山山麓に垂迹したため堂宇を建立、あるいは元慶年間(877年-885年)東山の感神院に移ったとされるのが祇園社(現在の八坂神社)である[7]

広峯社が祇園社の元宮であるという上記の伝承は室町時代に吉田神道が採用したことから大いに広まり、江戸時代には祇園社も時にこの説を受け入れるようになるなど完全に通説化した。しかし、現代的な歴史学的観点から八坂神社の創祀について先駆的研究を行った久保田収は、平安時代の文献には広峯社は一切あらわれないことや、伝播ルートの重要な拠点である東光寺の設立以前にすでに祇園の名称が遣われていることなどを詳細に検討した結果、広峯遷座説を否定している[17]。また、祇園社の祭神は平安時代の記録では「天神」または「祇園天神」とされていることから、最初は牛頭天王ではなかった可能性が指摘されている。祇園社の祭神が明確に牛頭天王と記録されるのは鎌倉時代以降の文献である。さらに、牛頭天王は祇園精舎のあるインドで信仰された形跡はなく、その伝播経路とされる朝鮮や中国においても「牛頭天王」やそれに相当する神仏が信仰された痕跡がない。そのため、牛頭天王は現在の学説では日本における独自の神であると考えられている。
中世

牛頭天王は疫病の神であるところから「蘇民将来」説話と混淆し、牛頭天王は武塔神と同一視されたり父子関係とされたりして、スサノオとも習合した。『神道集』巻第3 祇園大明神事[18]では「抑祇園大明神者、世人天王宮ト申、即牛頭天王是也、牛頭天王ハ武答天神王等ノ部類ノ神也、天形星トモ武答天神トモ、牛頭天王トモ崇ル」と牛頭天王は天刑星、武答天神、天道神とされた。牛頭天王と素戔嗚尊の習合神である祇園大明神(仏像図彙 1783年)

その結果、以下さまざまな説話のバリエーションが派生した。

地の金色文字で「蘇民将来子孫之門」と書かれた札の由来となった次の説話がある(赤い紙に金色の文字は陰陽道で「疫病神が嫌う色」とされているからとされる)。

「昔、牛頭天王が老人に身をやつしてお忍びで旅に出た時、とある村に宿を求めた。このとき弟の巨丹将来は裕福なのに冷淡にあしらい、兄の蘇民将来は貧しいのにやさしく迎え入れてもてなした。そこで牛頭天王は正体を明かし、「近々この村に死の病が流行るがお前の一族は助ける」とのたまった。果たせるかな死の病が流行ったとき、巨丹の一族は全部死んでしまったのに、蘇民の一族は助かったという。」

三國相傳陰陽?轄??内伝金烏玉兎集』(略称『金烏玉兎集』、『??内伝』とも)第1巻牛頭天王縁起に詳細な説話が記され[19]、『祇園牛頭天王御縁起』(上述)では牛頭天王は武答天皇の太子として登場し、牛頭天皇とも表記され、八大竜王の一、沙掲羅竜王の娘の頗梨采女を妃として八王子を生んだという。その姿かたちは頭に牛の角を持ち、夜叉のようであるが、こころは人間に似ていると考えられた。

日本仏教では、薬師如来の垂迹とされた。牛頭天王に対する神仏習合の信仰を祇園信仰といい、中世までには日本全国に広まり、悪疫退散・水難鎮護の神として「祇園祭」「天王祭」「津島祭」などと称する祭礼が各地で盛んに催されるようになった。
近世・近代

祇園社、天王社で祀られていた。単に天王といえば、牛頭天王をさすことが多い。牛頭天皇と呼ばれることもあり、奈良県滋賀県域に所在する天皇神社はスメラミコトとしての天皇ではなく牛頭天王が祭神である。天王洲アイルの「天王洲」など、各地にある「天王」のつく地名の多くは牛頭天王に因むものである。

江戸時代の国学者平田篤胤は著書『牛頭天王暦神弁』[20]で『牛頭天王出佛説秘密心点如意藏王陀羅尼經』は偽経であると記述した[21][出典無効]。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:71 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef