牛窪記
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これは逸話として最も字数が割かれ彩りを添えている[9]

上巻には岩瀬・真木と花藻・忍の恋愛、下巻にはともに添い遂げた4人の様子とその後の堀川城合戦で岩瀬は無事帰還するも真木は深手を負って死んで戻ったために、妻・花藻が悲しみのあまり古井戸(「戀れ井戸」)に身投げをしてしまうという悲劇を描いている[10]
下地聖眼寺の金扇伝承

牧野氏が聖眼寺(豊橋市下地町)の太子堂に奉納した2本の金扇の1本を、徳川家康が今川勢の支配する対岸の吉田城を攻撃する時に同寺住職が家康に献上した物で、のちに徳川将軍家馬印に採用されたという。なお、天正18年(1590年小田原征伐の際に徳川家康は聖眼寺でのエピソードを話して、金扇の使用を遠慮していた牧野半右衛門に馬印としての使用を差し許した[11]

ただし、聖眼寺太子堂奉納の金扇が永禄の時点で家康の馬印になったかどうかについて、以下の留意点もある。
'小瀬甫庵の『信長記』の説として、〈永禄(1558年 - 1570年)ノ比マデハ馬験ト云事ナカリキ、元亀(1570年 - 1573年)ノ比ヨリ初リ。とあり、永禄期の馬印(馬験)の存在を否定している。

また、徳川幕府の古記録である『柳営秘鑑』では扇の馬印は本多忠高本多忠勝父子を由来としている(ただし、この扇の馬印は金扇とは記していない)。
徳川家康の馬印」も参照
脚注^ 『近世三河地方文献集』の編者・久曾神昇はその解説で『牛窪記』の本文中の「此証文者、今鉄屋中尾氏重治所持也」の記述に注目し、中尾重治が元禄10年に『家伝記』を著したことや、『牛窪記』の訂補版である『牛久保密談記』が4年後の元禄14年に成立していることで元禄10年頃成立と推定している(『近世三河地方文献集』12頁)。なお、『牛窪記』の原本(もしくは写本)は現在、地元牛久保(豊川市)にも牧野家転封先の長岡市にも残っておらず、国立公文書館所蔵本「内閣文庫7632号資料」(写本/明治7年内務省旧蔵)と伊勢神宮の伊勢文庫所蔵本が知られている。また、岡崎市立中央図書館(出版年1874年;明治7年、写・複製)や、活字本として、1911年(明治44年)に全巻が完結・完成した『続群書類従』訂正3版・第21輯上・合戦部に収録されている(底本は国立公文書館蔵本で、原題は「牛久保記」と表記されている)。なお、『徳川実紀』引用書目中にもその名前が見える。
^ 『続群書類従解題・第四』137頁
^ 『訂 牛窪記』巻末「跋文」の筆者・中神基勝によれば、牧野氏はこの敵対事実を『牛窪記』の中で全て牧野保成に託さざるを得なかったと推論している。
^ 『近世三河地方文献集』241頁
^ 『訂 牛窪記』33頁。
^ 『近世三河地方文献集』179頁・系図
^ 『室町幕府守護職家事典(上)』366-368頁「牧野古白の今橋築城」
^ 『近世三河地方文献集』240-241頁
^ 『続群書類従解題・第四』138頁
^ 『近世三河地方文献集』242-243頁、256-257頁
^ 『近世三河地方文献集』254-255頁

参考文献

久曽神昇・近藤恒次編『近世三河地方文献集』国書刊行会、1980年。

中神基勝『訂 牛窪記』(校訂本)2010年。  

太田善麿『続群書類従解題・第四』続群書類従完成会、1981年。

今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典(上) 』新人物往来社、1988年、ISBN 4-404-01501-1 C1521。

豊橋市史編集委員会編『豊橋市史 第1巻 - 原始・古代・中世編』豊橋市、1973年。

早川直八郎・早川彦右衛門 『三河国宝飯郡誌』1891 - 1893年(合本)の5(牛久保町・下地町)。

関連項目

牧野保成

牛久保城

牛久保六騎

三河牧野氏

真木花藻

牛窪密談記

続群書類従


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