また、明代では郷紳のような地域の有力者に加え、牙行が商税徴収の請負業務を務める事例も現れるようになる。これは官にとっては徴税に必要な人件費などの行政費用の削減が見込まれ、牙行側としても官とのつながり強化や地域への影響力拡大の機会と捉えられていた[4]。嘉靖年間に入ると、地方において商税を整理する代わりに牙行そのものに課税を行った事例も見られるようになるが、万暦年間になると、財政難の解決のために全国規模で牙行への新たな課税(「牙行銀」「牙行税」)が行われるようになった[5]。
時代が下るにつれて穀物、茶、絹、木材、家畜などの商品によって専業化していき、社会的分業をとげていった。牙行でもっとも有力な存在であったのは、農村から穀物を買い上げるとともに農村で必要とされる都市の手工業製品を販売する「糧貨店」であったが、これも後には糧店と貨店に分化されるようになる。
清末の咸豊年間以降には近代的な銀行制度の成立や交通網の変遷によって、次第に牙行の役割は低下していくことになった[2]。
脚注^ a b c 長井『中国文化史大事典』「牙行」
^ a b c d e 今堀『アジア歴史事典』「牙行」
^ 新宮、2017年、P305-306.
^ 新宮、2017年、P307-310.
^ 新宮、2017年、P314-318.
参考文献
今堀誠二「牙行」(『アジア歴史事典 2』(平凡社、1984年))
長井千秋「牙行」(『中国文化史大事典』(大修館書店、2013年) ISBN 978-4-469-01284-2)
新宮学「明代の牙行について」『明清都市商業史の研究』汲古書院、2017 ISBN 978-4-7629-6041-3 P304-325.(初出:明代史研究会明代史論叢編集委員会 編『山根幸夫教授退休記念明代史論叢』下巻(汲古書院、1990年)P841-860.)
関連項目
広東十三行