片山哲
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片山の後は、連立与党の民主党を率いる芦田均が同じ連立の枠組みで芦田内閣を組織したが「政権たらい回し」の批判を浴び、やがて昭電疑獄の嵐の中であえなく総辞職した。その後に少数与党として発足した第2次吉田内閣が、紆余曲折の末に衆議院を解散したことで臨んだ1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では、昭電疑獄の逆風をもろに受けた日本社会党は143議席から48議席に激減するという大敗を喫し、委員長だった片山も次点で落選という憂き目を見た。現職の野党第一党党首の落選は、その後2014年(平成26年)の第47回総選挙民主党代表海江田万里が落選するまでの65年間、これが唯一の出来事だった[8]。日本社会党は1951年(昭和26年)10月に分裂に至り、片山は委員長を退いた。
その後

片山は1952年(昭和27年)、次の第25回総選挙右派社会党から立候補してトップ当選を果たし、国会復帰を果たす。その後、右派社会党→日本社会党→民主社会党に籍を置く。中華人民共和国と太いパイプを持ち、憲法擁護国民連合を結成して1955年(昭和30年)11月に訪中団長として藤田藤太郎遠藤三郎とともに毛沢東周恩来との会見を行い[9]、1957年(昭和32年)には久原房之助松本治一郎らとともに日中国交正常化を求める「日中国交回復国民会議」の代表委員を務め[10]1959年10月には中国建国10周年慶祝代表団団長として再び毛沢東と会見した[11][12]。選挙浄化・世界連邦運動にも参加した。

1960年(昭和35年)1月24日、社会党を離党した西尾末広らによって民主社会党(民社党)の結党大会が開かれ、片山を含む衆議院議員38人、参議院議員16人が結党に参加した[13]

1963年(昭和38年)の第30回総選挙で落選、これを機に政界を引退した。首相経験者として2度の落選を見たのもこの片山だけである。

1969年(昭和44年)10月1日、神奈川県藤沢市から第一号の名誉市民として顕彰される[14]

1978年(昭和53年)5月30日、老衰により死去[5]享年92(満90歳没)。告別式は同年6月1日、神奈川県藤沢市の自宅にてキリスト教式により行われた[15]。死去時点で内閣総理大臣経験者としては最年長であった(最古参は東久邇宮稔彦王のまま。片山の死去に伴い最年長も東久邇となる)。
キリスト教社会主義総理大臣在任中

クリスチャンであり、日本基督教団富士見町教会に所属していた[16]。片山は、日本においてキリスト教人権思想社会民主主義の融合(キリスト教社会主義)を実践した代表的な人物の一人である。また、世界連邦運動の推進団体・世界連邦日本国会委員会第2代会長でもあった安部磯雄と談笑
マッカーサー声明

ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官は片山哲が首相になると、「歴史上、実に初めて日本は全生涯をキリスト教徒としてすごした指導者によって指導される」として、同じくキリスト教徒であった中国の?介石、フィリピンのマニュエル・ロハスと並ぶ者として片山を支持する声明を出した[17]。マッカーサーは日本、中国、フィリピン東アジア諸国をキリスト教に基づいた民主主義国にしようと画策していたと指摘される[17]
著書

著訳書は戦前から数えると約40冊あるが、愛読していた
唐代の詩人白居易の著訳書を、岩波新書現代教養文庫で出している。また、安部磯雄伝を毎日新聞社で出している。

カナモジカイや「言語政策を話し合う会」に参加するなど、国語国字問題にも熱心に取り組んだ。

親族

姉の寿々代は
鳥山啓宅に寄宿していた縁で、のちに鳥山啓の三男・鳥山嶺男と結婚している。

宮城県議会議員、また日本社会党宮城県本部委員長や日ソ協会宮城連合会長を務めた三春重雄とは義理の甥の親戚関係に当たる。

明治時代の代表的な社会主義運動家・片山潜との縁戚関係はない。

長男の純(1918年生[18])は義父徳太郎の養子[19]になったので次男の民雄(1928年[18]-2014年没[20])が後を継いだ[18]、長女には照代(栗生覚蔵の養女となり栗生羊二と結婚[21]した)が、二女の文代(1922年生[18])は青地潔に嫁いだ[18]、三女には澄子(1925年生[18]、山本義雄[21]に嫁ぐ)がいる。

栄典

1964年 - 勲一等旭日大綬章

1978年 - 勲一等旭日桐花大綬章

1978年 - 従二位

関連作品
テレビドラマ


日本の戦後』第7集 退陣の朝 革新内閣の九ヶ月(1977年、NHK)- 演:千秋実

出典[脚注の使い方]^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』440頁。
^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』441頁。
^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』444頁。
^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』455頁。
^ a b c d e f g h 小林吉弥 (2019年11月14日). “歴代総理の胆力「片山哲」(1)国の舵取りなど夢想だにしなかった”. アサ芸プラス. 2020年2月17日閲覧。
^ 俵孝太郎『戦後首相論』(グラフ社
^ アメリカ占領下の日本 第4巻 アメリカン・デモクラシー企画・制作:ウォークプロモーション NPO法人科学映像館
^ “【衆院選】民主・海江田氏落選!野党第1党党首では49年片山元首相以来の屈辱”. スポーツ報知. 2014年12月15日閲覧。[リンク切れ]
^ “ ⇒中国・日本 両国人民の友好の絵巻物”. 中国網. 2016年11月5日閲覧。


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