爵位
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後漢代に入ると爵位の価値は更に軽くなり列侯、関内侯のみが爵とされ、列侯はさらに県侯、郷侯、亭侯などに細分された[3]
魏晋南北朝の爵位

曹魏に至ると秦以来の二十等爵を廃止して、儒教経典の公・侯・伯・子・男を擬古的に復活させた。文帝の黄初年間に王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯(最初郷侯の下に亭侯が置かれていたが後に省かれる)・関内侯の九等の爵制が定められた。222年黄初3年)には皇子を王に封じ、王子を郷公に封じ、王世子の子を郷侯に封じ、公子を亭伯に封じていた。その後224年(黄初5年)には諸王の爵位が皆県王に改められ、明帝232年太和6年)に再調整されて郡王となった。以上の九等の外に庶民や兵士に対しての賜爵もあり、関内侯の下には名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯が創立された。

武帝275年咸寧3年)に王・公・侯・伯・子・男・開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯の爵制が定められた。皇子でない者には王は封じらず宗室には公・侯・伯・子・男(郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)があり、功臣には開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯等があり、亭侯以上には封邑が与えられた[3]。五等爵の上に「開国」の2字を加えるケースは西晋では少なかったが、東晋になると多く用いられるようになり常に古来からの五等爵と混称されることもあった。魏晋時代以降は民爵については有名無実化し、皇帝を頂点とした皇族と功臣の爵位制度となっていった[3]

南朝のでは、おおよそ魏晋代に倣った爵制を定めていた。では郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公・侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯・関中関外侯の十二等があった。

北魏道武帝396年皇始元年)に五等爵が定められたが、404年天賜元年)に五等から王・公・侯・子の四等に減らされた。王は大郡、公は小郡、侯は大県、子は小県が与えられた。その後、再び伯・男の二等が加えられた。皇子と功臣には王が封ぜられた。500年景明元年)には王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯・子・散子・男・散男の十一等の爵制が定められた。官品との対応は下の表を参照。なお王には官品は適用されていない。

北斉では王・公・侯・伯・子・男の六等に分けられた。官品との対応は下の表を参照。なお王には北魏の場合と同様に官品は適用されていない。

北周の爵位には全て「開国」が加えられている。爵位は王・郡王・県王・国公・郡公・県公・県侯・県伯・県子・県男・郷男の十一等が定められた。
隋・唐・宋・遼・金・元の爵位

文帝の開皇年間に国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男の九等爵が設けられた(ただし「国王」については、従属国・朝貢貿易の相手国の君主に対して与える封号としてのみ用いられ、本稿で述べる君主が臣下に与える爵位とは異なる)。この他文献には、郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡・県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯・郷侯・亭侯・関中・関外侯なども見られる。

中国の爵位は隋代以降基本的には王・公・侯・伯・子・男をベースにしたものとなり代に完成した。その後を経て、徐々に簡素化し代には殷や周のころのように五等や三等であった。代も基本的に五等爵を基本としていたが、等級を設けていた。

官品日本1北魏北斉隋2唐・遼3宋4金元
正一品開国郡公王
従一品公開国県公・散公開国郡公郡王・国公・開国郡公・開国県公嗣王・郡王・国公郡王
正二品侯開国県侯散郡公・開国県公開国侯開国郡公郡公・開国郡公郡公国公
従二品伯散侯散県公・開国県侯開国県公郡公
正三品子開国県伯散県侯・開国県伯開国伯 郡侯
従三品散伯散県伯開国県侯開国侯
正四品男開国県子開国子開国県伯開国伯郡伯・県伯郡伯
従四品散子散県子 
正五品 開国県男開国男開国県子開国子県子
従五品散男開国郷男・散県男開国県男開国男県男

Notes:
1) 日本については品階ではなく位階であるが、類似した制度なため参考として載せた。この爵位と位階の対応は位階令(大正15年勅令第325号)による。2) 煬帝の時代には王・公・侯は保留された。3) 遼は唐の制度をそのまま用いた。4) その後、嗣王・郡公・開国公は保留された。

明代の爵位

代になると皇族たる宗室と功臣や外戚との爵位が異なるようになった。宗室以外の者に与えられる爵位は当初古来からの五等であったが、後に子・男は保留されて公・侯・伯の三等となった。

一方、宗室に与えられた爵位はより複雑なものとなっている。太祖の時代に襲封の制度が定められた。皇子は親王に封ぜられ、親王の嫡長子で10歳に達した者は王世子に立てられ嫡長孫は王世孫に立てられ均しく一品が与えられた。10歳に達した諸子は郡王に封ぜられ郡王の嫡長子は長子に、嫡長孫には長孫に立てられ均しく二品が与えられた。諸子には鎮国将軍が授けられ従一品が与えられ孫には輔国将軍と従二品、曾孫には奉国将軍と従二品、玄孫には鎮国中尉と従四品、来孫には輔国中尉と従五品、六世以下には皆奉国中尉と従六品が授けられた。
清代の爵位

代の爵位も明代と同様に宗室のものとモンゴル貴族のものと功臣・外戚のものとに分かれていた。宗室のものは和碩親王(ho?oi cin wang、ホショイしんのう)・多羅郡王(doroi giy?n wang、ドロイぐんおう)・多羅貝勒(doroi beile、ドロイベイレ)・固山貝子(g?sai beise、グサイベイセ)・奉恩鎮国公(kesi be tuwakiyara gurun be dalire gung、ほうおんちんこくこう)・奉恩輔国公(kesi be tuwakiyara gurun de aisilara gung、ほうおんほこくこう)・不入八分鎮国公(jak?n ubu de dosimbuhak? gurun be dalire gung、ふにゅうはちぶんちんこくこう)・不入八分輔国公(jak?n ubu de dosimbuhak? gurun be aisilara gung、ふにゅうはちぶんほこくこう)・鎮国将軍(gurun be dalire janggin)・輔国将軍(gurun be aisilara janggin)・奉国将軍(gurun be tuwakiyara janggin)・奉恩将軍(kesi be tuwakiyara janggin)があった。一般に爵位は世襲であるが、父の爵位より一級下のものとなる。ただし功勲などにより例外もあった。

ハーンやモンゴル貴族には親王・郡王・貝勒・貝子・公・一等 - 四等台吉(taiji、タイジ)・一等-四等塔布嚢(タブナン)が授けられていた。タイジは本来は太子の意でチンギス・ハーンの子孫の称号であった。タブナンはカラチン三旗とトメット左翼旗でタイジに相当する地位として用いられていた。

下の表は功臣・外戚の爵位の変遷である。

官品1620年天命5年)1634年天聡8年)1643年順治元年)1736年乾隆元年)1751年(乾隆16年)
超品
(jergici lakcaha)五備御之総兵官一等公
(uju jergi gung)一等 - 三等公
(<uju, jai, ilaci> jergi gung)
 一等 - 三等侯
(<uju, jai, ilaci> heo)一等侯兼一雲騎尉
(tuwa?ara hafan)
・一等 - 三等侯
(<uju, jai, ilaci> jergi heo)
一等 - 三等伯
(<uju, jai, ilaci> be)一等伯兼一雲騎尉
(tuwa?ara hafan)
・一等 - 三等伯
(<uju, jai, ilaci> jergi be)
正一品
(jingkini uju jergi)一等 - 三等総兵官
(<uju, jai, ilaci> jergi dzung bing guwan
/jergi uheri kadalara da)一等 - 三等昂邦章京
(<uju, jai, ilaci> jergi amban janggin)一等 - 三等精奇尼哈番
(<uju, jai, ilaci> jergi jingkini hafan)一等子兼雲騎尉
(tuwa?ara hafan)
・一等 - 三等子
(<uju, jai, ilaci> jergi jingkini hafan)1
正二品
(jingkini jai jergi)一等 - 三等副将
(<uju, jai, ilaci> jergi fujiyang
/jergi aililame kadalara da)一等 - 三等梅勒章京
(<uju, jai, ilaci> jergi meilen janggin)一等 - 三等阿思哈尼哈番
(<uju, jai, ilaci> jergi ashan i hafan)一等男兼一雲騎尉
(tuwa?ara hafan)
・一等 - 三等男
(<uju, jai, ilaci> jergi ashan i hafan)1
正三品
(jingkini ilaci jergi)一等-二等参将
(<uju, jai, ilaci> jergi ts'anjiyang
/jergi adaha kadalara da)一等 - 三等甲喇章京
(<uju, jai, ilaci> jergi jalan janggin)一等 - 三等阿達哈哈番
(<uju, jai, ilaci> jergi adaha hafan)一等軽車都尉
(uju jergi adaha hafan)
兼一雲騎尉
(tuwa?ara hafan)
・一等 - 三等軽車都尉
(<uju, jai, ilaci> jergi adaha hafan)1
游撃
(iogi
/dasihire hafan)
正四品
(jingkini duici jergi)備御
(beiguwan)一等 - 二等牛録章京
(<uju, jai> jergi niru janggin)一等 - 二等拜他喇布勒哈番
(<uju, jai> jergi baitalabure hafan)一等騎都尉
(uju jergi baitalabure hafan)
兼一雲騎尉
(tuwa?ara hafan)
・一等 - 二等騎都尉
(<uju, jai> jergi baitalabure hafan)1
正五品
(jingkini sunjaci jergi) ?沙喇哈番
(tuwa?ara hafan)雲騎尉
(tuwa?ara hafan)1
正七品
(jingkini nadaci jergi) 恩騎尉
(kesingge hafan)

Notes:
1) 満州語での名称は順治元年と同じ。

外命婦の封号(女性の爵位)

女性に与えられる爵位に順ずる封号は古来から存在したが、基本的に皇族女子や夫・子によって授けられることが多かった。

唐代には皇伯叔母に大長公主、皇姉妹には長公主、皇女には公主、皇太子の娘には郡主、王の娘には県主、王の母や妻には妃が授けられた。皇室以外では夫や子の品階や爵位によって授けられた。一品および国公の母・妻には国夫人が、三品以上の母・妻には郡夫人が、四品以上の母・妻には郡君が、五品以上の母・妻には県君が、散官や同職事には郷君がそれぞれ封ぜられた。

宋代では当初は唐とほぼ同様の制度が用いられていたが、公主から帝姫に一時期変更されていたことがあった。また郡君を淑人・碩人・令人・恭人に、県君を室人(後更に宜人)・安人・孺人に分けるようになった。

明代では公の母・妻は国夫人、侯の母・妻は侯夫人、伯の母・妻は伯夫人が授けられた。また、一品は夫人が授けられていたが、後には一品夫人と呼ぶようになった。二品は夫人、三品は淑人、四品は恭人、五品は宜人、六品は安人、七品は孺人がそれぞれ授けられた。

なお、母・祖母などには「太」の字が加えられた(国太夫人や郡太君、伯太夫人など)。これは、皇太后・太皇太后などの用例と同じものだと考えられる。
朝鮮における爵位

朝鮮では主に王族外戚、功臣に対して勲爵、爵号が授与される。王族のうち国王の嫡出子大君庶子。王婿にはの爵号が授けられた。また国王の実父は大院君の号が贈られるが、王舅または王世子の舅には府院君、また功臣も正一品の位階にある臣下は府院君または君の爵号を授けられた。


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