爵位
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華族に列せられていた元公卿・元諸侯等と、国家功労者の家の戸主に与えられた公・侯・伯・子・男の五爵が法文の中に現れるのは、1886年(明治19年)の華族世襲財産法の中である[5]。この法律により、華族は差押ができない世襲財産を設定することができるようになった。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、1909年(明治42年)時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない(特に男爵は少なく7%)[6]

明治憲法制定により貴族院が設置されると、その議員の種別として華族議員が設置された(ほかに皇族議員勅任議員がある)[7]。公侯爵の爵位保有者は30歳以上になると全員が終身の貴族院議員に列した。伯子男爵の爵位保有者は同爵位者の間での連記・記名投票選挙(選挙権は成年、被選挙権は30歳以上に与えられる。選挙は費用を含めて同爵者間の自治に委ねられており、選挙運動の取り締まりもない。当選者は手続きなしで自動的に貴族院議員となる)によって1/5程度(伯爵は18人、子爵男爵はそれぞれ66人)が任期7年の貴族院議員となる[8]。公侯爵議員は公卿や大藩大名の子孫や国家功労者の2代目などが多かったので、貴族院での活躍はあまり見られなかった。本会議出席状況すら十分ではなく、特に現役陸海軍軍人である公侯爵は皇族に準じて出席しないのが慣例になっていた[6]。そのため大正時代の政治課題の一つになっていた「華族議員の弊害」という問題は主に伯爵以下の議員たちのことであり、定員問題以上に批判の対象となった[9]

衆議院議員選挙法に基づき、有爵者は衆議院議員になることはできなかった。そのため衆議院議員として活躍し立候補を希望する者が叙爵されてしまうと政治的権利の制約になる可能性がある点に注意が必要だった。たとえば原敬立憲政友会総裁になる前から衆議院議員になれなくなることを警戒し、叙爵を回避しようと運動していた(原敬日記にしばしばこうした記述がある)[6]。また高橋是清は衆議院議員選挙立候補のため、嗣子に子爵位を相続させて自らは分家として平民になることで対応している[6]

日韓併合後には旧韓国皇室が日本の皇族に準じる礼遇を受ける王公族となった。皇帝皇太子前皇帝が王族、それ以外の皇帝近親者が公族に列した[10]

1910年(明治43年)の朝鮮貴族令により朝鮮貴族の制度が設けられ、朝鮮人の勲功者に華族と同じ公侯伯子男の爵位が授けられるようになった(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位の爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族は、皇室から特別な礼遇を受け、その監督に服する点では華族と同じだったが、貴族院議員になる特権がなかった点が華族と異なった[6]

1906年(明治39年)には宮内省達第二号華族就学規則が制定され、宮内大臣が監督した[11]

1907年(明治40年)の華族令改正では華族の範囲について有爵者たる戸主とその家族と定められた。次男以下が分家した場合は平民である。またこの改正の際に爵位継承のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に家督相続の届け出を行うことが義務付けられ、期間内に届け出がなかった場合は爵位を放棄することができる結果となった(ただこれ以前にも爵位返上した例はあった)[11]

1910年(明治43年)には、華族戒飭令が定められ[11]、地位の剥奪などの懲戒処分を審議する宗秩寮審議会が設置された。

1886年(明治19年)1月時点における爵位保持者の人口は525名でその親族は合計3419名であった[注釈 4]。華族令制定後、毎年多数の叙爵が行われ、最終的には1016名が叙爵されている(陞爵は除く)[12]

1947年昭和22年)に華族制度が廃止された際の華族家の数は890家だった[12]

1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定められたことにより華族制度や爵位は廃止された。貴族と華族はほとんど同義であるが、「その他の貴族」という表現には王公族や朝鮮貴族を含む[11]。以降は日本国内において爵位が国の制度や社会に果たす役割は完全に消滅したといえる。しかし、戦後も国内外で功績ある日本国民に対して諸外国から爵位に叙せられる例がある。なお、正式な爵位・称号を授かってもいないのにこれを詐称することは軽犯罪法第1条15号に禁ずる行為となる[注釈 5]
1884年(明治17年)7月7日の叙任

華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り(1884年(明治17年)7月8日 官報に記載された順による[13])。

公爵侯爵伯爵子爵

授公爵

従一位勲一等九条道孝

正五位鷹司熙通

従五位二条基弘近衛篤麿一条実輝

従三位徳川家達
依偉勲特授公爵

従一位大勲位三条実美

正二位勲一等島津久光

従二位勲二等毛利元徳島津忠義
授侯爵

正二位広幡忠礼醍醐忠順

正二位勲一等徳大寺実則

正二位勲二等浅野長勲

正二位徳川茂承

従二位勲三等蜂須賀茂韶

正三位勲四等久我通久

正三位勲三等西園寺公望

従三位勲三等佐竹義堯細川護久鍋島直大山内豊範池田章政

従四位前田利嗣菊亭脩季

正五位池田輝知

従五位徳川篤敬黒田長成徳川義礼

(位階なし)花山院忠遠大炊御門幾麿
依勲功特授侯爵

従一位勲一等中山忠能
依父孝允勲功
特授侯爵

従五位木戸正次郎
依父利通勲功
特授侯爵

従五位大久保利和
授伯爵

正二位中院通富

正三位山科言縄飛鳥井雅望

従三位油小路隆晃三条西公允園基祥

従三位勲四等橋本実梁

従三位勲二等柳原前光

正四位松平茂昭滋野井公寿

正四位勲二等四条隆謌

正四位鷲尾隆聚津軽承昭

従四位井伊直憲松平頼聡冷泉為紀葉室長邦正親町実正伊達宗徳藤堂高潔上杉茂憲柳沢保申

従四位勲五等万里小路通房

従四位坊城俊章清閑寺盛房前田利同甘露寺義長勧修寺顕允中御門経明酒井忠篤溝口直正

正五位嵯峨公勝姉小路公義室町公康南部利恭戸田氏共

従五位堀田正倫奥平昌邁烏丸光亨阿部正桓中川久成小笠原忠忱伊達宗基


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