1947年(昭和22年)に華族制度が廃止された際の華族家の数は890家だった[12]。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定められたことにより華族制度や爵位は廃止された。貴族と華族はほとんど同義であるが、「その他の貴族」という表現には王公族や朝鮮貴族を含む[11]。以降は日本国内において爵位が国の制度や社会に果たす役割は完全に消滅したといえる。しかし、戦後も国内外で功績ある日本国民に対して諸外国から爵位に叙せられる例がある。なお、正式な爵位・称号を授かってもいないのにこれを詐称することは軽犯罪法第1条15号に禁ずる行為となる[注釈 5]。 華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り(1884年(明治17年)7月8日 官報に記載された順による[13])。 従一位勲一等九条道孝 正五位鷹司熙通 従三位徳川家達 従一位大勲位三条実美 正二位勲一等島津久光 正二位勲一等徳大寺実則 正二位勲二等浅野長勲 正二位徳川茂承 従二位勲三等蜂須賀茂韶 正三位勲四等久我通久 正三位勲三等西園寺公望 正五位池田輝知 (位階なし)花山院忠遠
1884年(明治17年)7月7日の叙任
依偉勲特授公爵
依勲功特授侯爵
従五位大久保利和
授伯爵
正二位中院通富
正三位山科言縄飛鳥井雅望
従三位油小路隆晃三条西公允園基祥
従三位勲四等橋本実梁
従三位勲二等柳原前光
正四位勲二等四条隆謌
従四位井伊直憲松平頼聡冷泉為紀葉室長邦正親町実正伊達宗徳藤堂高潔上杉茂憲柳沢保申
従四位勲五等万里小路通房
従四位坊城俊章清閑寺盛房前田利同甘露寺義長勧修寺顕允中御門経明酒井忠篤溝口直正
従五位堀田正倫奥平昌邁烏丸光亨阿部正桓中川久成小笠原忠忱伊達宗基
従五位勲六等広橋賢光
従五位清水篤守酒井忠道立花寛治日野資秀徳川達孝有馬頼万久松定謨松平直亮清水谷実英徳川達道
正三位勲二等東久世通禧
従三位勲一等黒田清隆
正四位勲一等大木喬任寺島宗則山県有朋伊藤博文井上馨西郷従道川村純義山田顕義松方正義大山厳佐々木高行
依父真臣勲功
特授伯爵
(位階なし)広沢金次郎
依勲功特授子爵
正四位勲一等福岡孝弟
従四位勲二等鳥尾小弥太三浦梧楼中牟田倉之助谷干城伊東祐麿三好重臣曾我祐準高島鞆之助樺山資紀
正五位勲二等野津道貫仁礼景範 華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り(1884年(明治17年)7月9日 官報に記載された順による[14])。 従四位勲四等岩倉具定 正四位松浦詮 従四位宗重正 叙爵の基準について華族叙爵内規では「公爵ハ親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉功アル者」、侯爵は「旧清華家 徳川旧三家 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧琉球藩王 国家二勲功アル者」、伯爵は「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上 徳川旧三卿 旧中藩知事即チ現米五万石以上 国家二勲功アル者」、子爵は「一新前家ヲ起シタル旧堂上 旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家 国家二勲功アル者」、男爵は「一新後華族二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定められていた。ただし内規と実際の運用が異なっていたケースとして、内規では皇族が臣籍降下して華族になると公爵に列せられるはずだが、実際には臣籍降下で公爵に叙せられた者はなく、侯爵か伯爵だったことなどがある[12]。 旧公家や旧武家の叙爵については、特に鎌倉時代から江戸時代までの家格に重きをおきつつ複雑に細分化された格式は考慮の対象外とするなど合理的な判断基準が採用された。とりわけ華族の中核たる堂上華族については清華家に次ぐ格式を誇る大臣家の格式が無視され、半家同様と位置付けられた。武家においても石高を重視する一方で伺候席の序列や室町幕府由来の格式が無視され、これらのことから一部の公家や武家からの反発を生み処遇を不満とした華族当事者やその旧家臣から陞爵運動が起きた。
※男爵は、この官報に掲載されていない。
1884年(明治17年)7月8日の叙任
授伯爵
※子爵および男爵は、叙任者数過多により、ここでは省略する。
叙爵基準