爵位
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古くは、氏姓制度の中で大臣大連など豪族に対して与えられる称号である「カバネ」が日本独自の爵位制度として存在していた[4]

しかし飛鳥時代に入ると、中国王朝への朝貢と服属によらない対等な国づくりを目指した聖徳太子により、十七条憲法と行政機構の整備が進められたことにより、国内統治の根幹をなす官僚の身分秩序として冠位十二階が制定され、従来の氏族の序列による氏姓制度に取って替わるようになった。この冠位は中国の爵位を意識して整備されたものであり、実質的に爵位としての機能を果たすものとなった[注釈 3]

中国の爵位制度や古代日本の八色の姓が冠位十二階と異なるのは、前者が有力氏族の血筋を階級化する人爵であったことに対し、後者の冠位は孟子の唱えた天爵、即ち仁・義・忠・信の人徳を備えた人物像を尊ぶ五行思想に基づくものであったためである。

冠位十二階は、登用は氏族の出自によらず、人物の器識徳量に応じて登用するという、今日の能力主義の見地に立った身分制度であった。一方で、従来のカバネは消滅することなく存続し、天武天皇の代に八色の姓として再編された。氏族の出自は官人の選考要件のひとつとして看做されてはいたが、701年大宝元年)の大宝令718年養老2年)の養老令で冠位制度に代わり位階勲位が敷かれていく中で、出自により細分化されていたカバネも次第に朝臣の姓に集約されていくようになり、カバネ自体の等級的な性質は次第に失われていった。
カバネの形骸化:位階制と家格

制度面では氏族の序列であるカバネが形骸化し、能力主義を基底とした冠位十二階が位階制として発展していく一方で、政治の実態はむしろ能力主義による天爵の精神から、氏族の出自により登用される人爵としての性格に回帰していった。当初は様々な氏族が登用されてきた位階制も、次第に政争を通じて、藤原氏に代表される上級貴族に高位高官が占められるようになった。

新たな位階制の下では皇親たる親王の品階を一品から四品と定め、それ以外の親王を無品親王とし、諸王の位階を正一位から従五位下までの十四階に分けた。

人臣は正一位から少初位下までの三十階に分けられ、この位階のうち国司の長官に相当する従五位下以上がいわゆる貴族と位置付けられる。従五位下を別称して松爵、栄爵といわれるようになり、従五位下に叙せられることを叙爵と称されるようになった。

大宝令の中で特徴的であるのが蔭位の制である。この制度では高位者の子弟を貴族、または貴族に準ずる官位に叙する仕組みが整えられ、貴族政治の色彩が強まったのである。平安時代以降になると、有力氏族ごとに叙位任官者の推薦枠が保障される氏爵が設けられるようになった。年度ごとに、同一氏族の一門同士で叙位任官者を推挙する年爵や、一門を順送りに叙位任官させる巡爵といった慣行が発生したのはその例である。朝廷の位階制度は、有力な院宮王臣家に独占されていくことになった。やがて同一氏族の中でも嫡流庶流の別はもちろん、母の身分、父祖の官位に応じて個々の家系ごとに昇ることができる官位の上限、すなわち極位極官が固定化していくことになり、鎌倉時代以降、公家、武家とも家格が細分化されていくことになったのである。

平安時代から鎌倉時代以降、貴族は主に公卿を中心とした公家と、武士を中心とした武家に分かれた。

公家の序列は藤原摂関家の子孫を中心とした摂家を筆頭に、清華家大臣家羽林家名家半家に分けられ、家々で任ぜられる極位極官が定められた。

武家における家格は政治の実権を長く握っており、多くの家臣を統率する観点から公家の格式以上に複雑なものとなった。武家の血統では武家政治の時代を通じて将軍家の一門、有力家臣の家系、姻戚関係が重視され、鎌倉時代は将軍と同じ清和源氏の一門のうち、特に認められた者を門葉と称した。足利将軍家の一門は足利一門と、徳川将軍家の一門は家門大名と称され、叙位任官など格式や人事面で優遇された。

将軍の一門については、足利一門が政治の実権を握った室町時代を除いて政治への参画は敬遠され、ただ将軍家の連枝として格式のみ保障されることが多かった。一方、人事面で政治の要職に登用されたのは、それぞれの時代で幕府草創に功労のあった武家であった。

鎌倉時代はともに有力御家人であった三浦氏、和田氏、安達氏との政争に勝利した北条氏が執権職を世襲し、その他の役職も北条氏および姻戚関係にある有力御家人で守護・地頭職が占められるようになる。

室町時代は足利一門および有力守護の家系で構成された三管領四職七頭の格式が整い、特定の武家に幕府の役職が世襲された。

江戸時代以降となると武家の格式がさらに複雑化することとなり将軍の家臣は直参とされ、1万石以上の武家を大名、将軍御目見え以上を旗本、御目見え以下の直参を御家人といい、大名の家臣を陪臣といった。また大名についてはその身分格式が細かく、将軍一門の家門大名、徳川古参の家臣たる譜代大名、それ以外の外様大名に分けられ幕政への参画の道は譜代大名にのみ開かれた。特に、幕府職制の最高職たる大老井伊氏酒井氏堀田氏などに限られ、老中には幕府の中で京都所司代若年寄など重職を経た譜代大名が登用されたのである。

一連の鎌倉時代から江戸時代までの変遷の中で武家の格式もかなり細分化が進む。室町時代以降は特に足利一門や有力守護に対しては将軍の通字である「義」または当代の将軍の諱の文字の一字を賜る将軍偏諱という新たな栄典が生まれ、足利姓を称する一門は鎌倉公方篠川御所稲村御所など公方号御所号を称するようになり、また有力守護に対しては屋形号および白傘袋毛氈鞍覆の使用が与えられ、守護代には唐傘袋毛氈鞍覆の他、塗輿などが免許されるなど家系の序列に応じた栄典が整っていった。とりわけ将軍偏諱と御所号、屋形号の免許については江戸時代に室町時代からの名家や国主大名に与えられる恩典として踏襲されていった。

安土桃山時代豊臣秀吉から豊臣氏羽柴姓が大名に下賜される慣例が生まれ、江戸幕府の下では将軍家から国主大名や将軍の寵臣に対し松平姓が下賜されるなど武家に対する栄典が拡充されていった。加えて江戸幕府の下では大名の家柄や石高に応じ伺候席が定められ、御三家や100万石を領する加賀藩などの大廊下を筆頭に大広間溜間帝鑑間柳間雁間菊間広縁に分けられた。官位への任免は大名をはじめ上級旗本、御三家の上級家臣に限られ、外様大名では加賀藩家老の本多氏のみ従五位下への叙爵のみ許されるなど江戸時代にはその身分制度もかなり複雑化されていくようになった。
近代における華族制度「華族」も参照

一連の複雑な身分制度にとって大きな転換期となったのは、明治維新である。1868年明治2年)の王政復古で新政府が発足した後、1869年(明治2年)の版籍奉還により、かつての大名が持っていた所領は天皇に奉還され、旧大名は知藩事として処遇されたが、段階的に各大名家の統治機構を中央政府の下に吸収し、1871年(明治4年)の廃藩置県により藩は廃止されて国直轄の県となった。明治政府は江戸時代以前の身分制度を四民平等の下で廃止する一方、1869年7月25日(明治2年6月17日)、太政官達「公卿諸侯の称を廃し改て華族と称す」により華族制度を創設し、代々天皇に仕えた公家と、三百諸侯として全国に割拠した大名を天皇の藩屏に組み込んだ。

1877年(明治10年)には、民事裁判上勅奏任官華族喚問方(司法省達)が交付され、華族は刑事裁判の当事者であっても出廷の義務がない(華族家人職員に出廷を代理させることができる)ことが定められた。

1884年(明治17年)7月7日、明治天皇の華族授爵ノ詔勅、また宮内卿伊藤博文華族令(宮内省達無号)が公布され、五爵という概念が創設されたが、この2法規は爵の種別までは規定していない。華族授爵の詔勅
朕惟ふに華族勲冑は国の瞻望なり 宜しく授くるに榮爵を以てし用て寵光を示すへし
文武諸臣中興の偉業を翼賛し國に大勞ある者宜しく均しく優列に陞し用て殊典を昭かにすへし
?に五爵を叙て其有禮を秩す卿等益す爾の子孫をして世々其の美を濟さしめよ ? 柴田勇之助、『明治詔勅全集』「華族授爵の詔勅」(皇道館事務所、1907年(明治40年))NDLJP:759508/284

華族に列せられていた元公卿・元諸侯等と、国家功労者の家の戸主に与えられた公・侯・伯・子・男の五爵が法文の中に現れるのは、1886年(明治19年)の華族世襲財産法の中である[5]。この法律により、華族は差押ができない世襲財産を設定することができるようになった。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、1909年(明治42年)時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない(特に男爵は少なく7%)[6]

明治憲法制定により貴族院が設置されると、その議員の種別として華族議員が設置された(ほかに皇族議員勅任議員がある)[7]


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