衆議院議員選挙法に基づき、有爵者は衆議院議員になることはできなかった。そのため衆議院議員として活躍し立候補を希望する者が叙爵されてしまうと政治的権利の制約になる可能性がある点に注意が必要だった。たとえば原敬は立憲政友会総裁になる前から衆議院議員になれなくなることを警戒し、叙爵を回避しようと運動していた(原敬日記にしばしばこうした記述がある)[6]。また高橋是清は衆議院議員選挙立候補のため、嗣子に子爵位を相続させて自らは分家として平民になることで対応している[6]。
日韓併合後には旧韓国皇室が日本の皇族に準じる礼遇を受ける王公族となった。皇帝・皇太子・前皇帝が王族、それ以外の皇帝近親者が公族に列した[10]。
1910年(明治43年)の朝鮮貴族令により朝鮮貴族の制度が設けられ、朝鮮人の勲功者に華族と同じ公侯伯子男の爵位が授けられるようになった(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位の爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族は、皇室から特別な礼遇を受け、その監督に服する点では華族と同じだったが、貴族院議員になる特権がなかった点が華族と異なった[6]。
1906年(明治39年)には宮内省達第二号華族就学規則が制定され、宮内大臣が監督した[11]。
1907年(明治40年)の華族令改正では華族の範囲について有爵者たる戸主とその家族と定められた。次男以下が分家した場合は平民である。またこの改正の際に爵位継承のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に家督相続の届け出を行うことが義務付けられ、期間内に届け出がなかった場合は爵位を放棄することができる結果となった(ただこれ以前にも爵位返上した例はあった)[11]。
1910年(明治43年)には、華族戒飭令が定められ[11]、地位の剥奪などの懲戒処分を審議する宗秩寮審議会が設置された。
1886年(明治19年)1月時点における爵位保持者の人口は525名でその親族は合計3419名であった[注釈 4]。華族令制定後、毎年多数の叙爵が行われ、最終的には1016名が叙爵されている(陞爵は除く)[12]。
1947年(昭和22年)に華族制度が廃止された際の華族家の数は890家だった[12]。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定められたことにより華族制度や爵位は廃止された。貴族と華族はほとんど同義であるが、「その他の貴族」という表現には王公族や朝鮮貴族を含む[11]。以降は日本国内において爵位が国の制度や社会に果たす役割は完全に消滅したといえる。しかし、戦後も国内外で功績ある日本国民に対して諸外国から爵位に叙せられる例がある。なお、正式な爵位・称号を授かってもいないのにこれを詐称することは軽犯罪法第1条15号に禁ずる行為となる[注釈 5]。 華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り(1884年(明治17年)7月8日 官報に記載された順による[13])。 従一位勲一等九条道孝 正五位鷹司熙通 従三位徳川家達 従一位大勲位三条実美 正二位勲一等島津久光 正二位勲一等徳大寺実則 正二位勲二等浅野長勲 正二位徳川茂承 従二位勲三等蜂須賀茂韶 正三位勲四等久我通久 正三位勲三等西園寺公望 正五位池田輝知 (位階なし)花山院忠遠
1884年(明治17年)7月7日の叙任
依偉勲特授公爵
依勲功特授侯爵
従五位大久保利和
授伯爵
正二位中院通富
正三位山科言縄飛鳥井雅望
従三位油小路隆晃三条西公允園基祥
従三位勲四等橋本実梁
従三位勲二等柳原前光
正四位勲二等四条隆謌
従四位井伊直憲松平頼聡冷泉為紀葉室長邦正親町実正伊達宗徳藤堂高潔上杉茂憲柳沢保申
従四位勲五等万里小路通房
従四位坊城俊章清閑寺盛房前田利同甘露寺義長勧修寺顕允中御門経明酒井忠篤溝口直正
従五位堀田正倫奥平昌邁烏丸光亨阿部正桓中川久成小笠原忠忱伊達宗基
従五位勲六等広橋賢光
従五位清水篤守酒井忠道立花寛治日野資秀徳川達孝有馬頼万久松定謨松平直亮清水谷実英徳川達道
正三位勲二等東久世通禧
従三位勲一等黒田清隆
正四位勲一等大木喬任寺島宗則山県有朋伊藤博文井上馨西郷従道川村純義山田顕義松方正義大山厳佐々木高行
依父真臣勲功
特授伯爵
(位階なし)広沢金次郎