爵位
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公家の序列は藤原摂関家の子孫を中心とした摂家を筆頭に、清華家大臣家羽林家名家半家に分けられ、家々で任ぜられる極位極官が定められた。

武家における家格は政治の実権を長く握っており、多くの家臣を統率する観点から公家の格式以上に複雑なものとなった。武家の血統では武家政治の時代を通じて将軍家の一門、有力家臣の家系、姻戚関係が重視され、鎌倉時代は将軍と同じ清和源氏の一門のうち、特に認められた者を門葉と称した。足利将軍家の一門は足利一門と、徳川将軍家の一門は家門大名と称され、叙位任官など格式や人事面で優遇された。

将軍の一門については、足利一門が政治の実権を握った室町時代を除いて政治への参画は敬遠され、ただ将軍家の連枝として格式のみ保障されることが多かった。一方、人事面で政治の要職に登用されたのは、それぞれの時代で幕府草創に功労のあった武家であった。

鎌倉時代はともに有力御家人であった三浦氏、和田氏、安達氏との政争に勝利した北条氏が執権職を世襲し、その他の役職も北条氏および姻戚関係にある有力御家人で守護・地頭職が占められるようになる。

室町時代は足利一門および有力守護の家系で構成された三管領四職七頭の格式が整い、特定の武家に幕府の役職が世襲された。

江戸時代以降となると武家の格式がさらに複雑化することとなり将軍の家臣は直参とされ、1万石以上の武家を大名、将軍御目見え以上を旗本、御目見え以下の直参を御家人といい、大名の家臣を陪臣といった。また大名についてはその身分格式が細かく、将軍一門の家門大名、徳川古参の家臣たる譜代大名、それ以外の外様大名に分けられ幕政への参画の道は譜代大名にのみ開かれた。特に、幕府職制の最高職たる大老井伊氏酒井氏堀田氏などに限られ、老中には幕府の中で京都所司代若年寄など重職を経た譜代大名が登用されたのである。

一連の鎌倉時代から江戸時代までの変遷の中で武家の格式もかなり細分化が進む。室町時代以降は特に足利一門や有力守護に対しては将軍の通字である「義」または当代の将軍の諱の文字の一字を賜る将軍偏諱という新たな栄典が生まれ、足利姓を称する一門は鎌倉公方篠川御所稲村御所など公方号御所号を称するようになり、また有力守護に対しては屋形号および白傘袋毛氈鞍覆の使用が与えられ、守護代には唐傘袋毛氈鞍覆の他、塗輿などが免許されるなど家系の序列に応じた栄典が整っていった。とりわけ将軍偏諱と御所号、屋形号の免許については江戸時代に室町時代からの名家や国主大名に与えられる恩典として踏襲されていった。

安土桃山時代豊臣秀吉から豊臣氏羽柴姓が大名に下賜される慣例が生まれ、江戸幕府の下では将軍家から国主大名や将軍の寵臣に対し松平姓が下賜されるなど武家に対する栄典が拡充されていった。加えて江戸幕府の下では大名の家柄や石高に応じ伺候席が定められ、御三家や100万石を領する加賀藩などの大廊下を筆頭に大広間溜間帝鑑間柳間雁間菊間広縁に分けられた。官位への任免は大名をはじめ上級旗本、御三家の上級家臣に限られ、外様大名では加賀藩家老の本多氏のみ従五位下への叙爵のみ許されるなど江戸時代にはその身分制度もかなり複雑化されていくようになった。
近代における華族制度「華族」も参照

一連の複雑な身分制度にとって大きな転換期となったのは、明治維新である。1868年明治2年)の王政復古で新政府が発足した後、1869年(明治2年)の版籍奉還により、かつての大名が持っていた所領は天皇に奉還され、旧大名は知藩事として処遇されたが、段階的に各大名家の統治機構を中央政府の下に吸収し、1871年(明治4年)の廃藩置県により藩は廃止されて国直轄の県となった。明治政府は江戸時代以前の身分制度を四民平等の下で廃止する一方、1869年7月25日(明治2年6月17日)、太政官達「公卿諸侯の称を廃し改て華族と称す」により華族制度を創設し、代々天皇に仕えた公家と、三百諸侯として全国に割拠した大名を天皇の藩屏に組み込んだ。

1877年(明治10年)には、民事裁判上勅奏任官華族喚問方(司法省達)が交付され、華族は刑事裁判の当事者であっても出廷の義務がない(華族家人職員に出廷を代理させることができる)ことが定められた。

1884年(明治17年)7月7日、明治天皇の華族授爵ノ詔勅、また宮内卿伊藤博文華族令(宮内省達無号)が公布され、五爵という概念が創設されたが、この2法規は爵の種別までは規定していない。華族授爵の詔勅
朕惟ふに華族勲冑は国の瞻望なり 宜しく授くるに榮爵を以てし用て寵光を示すへし
文武諸臣中興の偉業を翼賛し國に大勞ある者宜しく均しく優列に陞し用て殊典を昭かにすへし
?に五爵を叙て其有禮を秩す卿等益す爾の子孫をして世々其の美を濟さしめよ ? 柴田勇之助、『明治詔勅全集』「華族授爵の詔勅」(皇道館事務所、1907年(明治40年))NDLJP:759508/284

華族に列せられていた元公卿・元諸侯等と、国家功労者の家の戸主に与えられた公・侯・伯・子・男の五爵が法文の中に現れるのは、1886年(明治19年)の華族世襲財産法の中である[5]。この法律により、華族は差押ができない世襲財産を設定することができるようになった。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、1909年(明治42年)時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない(特に男爵は少なく7%)[6]

明治憲法制定により貴族院が設置されると、その議員の種別として華族議員が設置された(ほかに皇族議員勅任議員がある)[7]。公侯爵の爵位保有者は30歳以上になると全員が終身の貴族院議員に列した。伯子男爵の爵位保有者は同爵位者の間での連記・記名投票選挙(選挙権は成年、被選挙権は30歳以上に与えられる。選挙は費用を含めて同爵者間の自治に委ねられており、選挙運動の取り締まりもない。当選者は手続きなしで自動的に貴族院議員となる)によって1/5程度(伯爵は18人、子爵男爵はそれぞれ66人)が任期7年の貴族院議員となる[8]。公侯爵議員は公卿や大藩大名の子孫や国家功労者の2代目などが多かったので、貴族院での活躍はあまり見られなかった。本会議出席状況すら十分ではなく、特に現役陸海軍軍人である公侯爵は皇族に準じて出席しないのが慣例になっていた[6]。そのため大正時代の政治課題の一つになっていた「華族議員の弊害」という問題は主に伯爵以下の議員たちのことであり、定員問題以上に批判の対象となった[9]

衆議院議員選挙法に基づき、有爵者は衆議院議員になることはできなかった。そのため衆議院議員として活躍し立候補を希望する者が叙爵されてしまうと政治的権利の制約になる可能性がある点に注意が必要だった。たとえば原敬立憲政友会総裁になる前から衆議院議員になれなくなることを警戒し、叙爵を回避しようと運動していた(原敬日記にしばしばこうした記述がある)[6]。また高橋是清は衆議院議員選挙立候補のため、嗣子に子爵位を相続させて自らは分家として平民になることで対応している[6]

日韓併合後には旧韓国皇室が日本の皇族に準じる礼遇を受ける王公族となった。皇帝皇太子前皇帝が王族、それ以外の皇帝近親者が公族に列した[10]

1910年(明治43年)の朝鮮貴族令により朝鮮貴族の制度が設けられ、朝鮮人の勲功者に華族と同じ公侯伯子男の爵位が授けられるようになった(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位の爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族は、皇室から特別な礼遇を受け、その監督に服する点では華族と同じだったが、貴族院議員になる特権がなかった点が華族と異なった[6]

1906年(明治39年)には宮内省達第二号華族就学規則が制定され、宮内大臣が監督した[11]

1907年(明治40年)の華族令改正では華族の範囲について有爵者たる戸主とその家族と定められた。次男以下が分家した場合は平民である。またこの改正の際に爵位継承のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に家督相続の届け出を行うことが義務付けられ、期間内に届け出がなかった場合は爵位を放棄することができる結果となった(ただこれ以前にも爵位返上した例はあった)[11]

1910年(明治43年)には、華族戒飭令が定められ[11]、地位の剥奪などの懲戒処分を審議する宗秩寮審議会が設置された。

1886年(明治19年)1月時点における爵位保持者の人口は525名でその親族は合計3419名であった[注釈 4]。華族令制定後、毎年多数の叙爵が行われ、最終的には1016名が叙爵されている(陞爵は除く)[12]

1947年昭和22年)に華族制度が廃止された際の華族家の数は890家だった[12]


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