爆風スランプ
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前述の過激なパフォーマンスの記録として1985年5月26日午後に行われた東京大学学園祭第58回五月祭ロックコンサートで教室の机や椅子が破壊されたとの記述がある。[4]

デビュー当時の所属事務所は、オフィスすいか。

1985年6月「夜のヒットスタジオDELUXE」に初出演するが、前述の火を使うパフォーマンス(後に消防署からクレームが入る)、スタジオ内を歩き回り出演者やオーケストラ演奏者と握手するなど大暴れ。その後も同番組に出演した際は、THE ALFEEのセットを壊す、テレビカメラの上に乗る等、暴れ続ける。この数日後に「ザ・ベストテン」にスポット・ライトで出演の際もスタジオ内を暴れまわる。

1985年12月13日、日本武道館で初ライブを果たす。1984年12月に九段会館でライブを行った後、中野がトイレの窓から武道館を見て、「あそこでライブをやりたいなー」と思った後に、レコード会社から「来年武道館を予約しておきました」と言われ、武道館でのライブが行われることになった逸話がある。中野は、自分たちが武道館を満席にできるわけがないと思っていた。そこから発想して「武道館に空席があるのは、ペンフレンドの女の子を誘ったが来てくれなかったから」という言い訳ソングが作られ、後に彼らの代表作の一つとして評価される「大きな玉ねぎの下で」(「大きな玉ねぎの下で ?はるかなる想い」も参照)である。1986年以降は強力なリズム・セクションを擁した実力派バンドとして徐々に認められていく。
「Runner」のヒット

バンド活動に限界が見え始めてきたことから、1986年にプロデューサーとして新田一郎を迎え、新田が社長を務める代官山プロダクションに移籍。新田は先ず、売れることを目的とした活動を始めることにしたが、江川ほーじんが反発、脱退を決意。末吉の作った曲に、辞めていく江川の姿を中野が詞にして「Runner」が誕生、1988年に発表され34万枚を売上。ロングヒットとなる。

NHK総合音楽番組ジャストポップアップ』にて演奏、番組の元にリクエストが殺到。これがきっかけで、1988年の『第39回NHK紅白歌合戦』に出場、翌年(1989年)1月9日の2度目の武道館公演を行った。江川はこの公演を最後に脱退。当初の予定は1月7.8.9日の3日間公演であったが、昭和天皇崩御により7・8日の公演を自粛。

天才・たけしの元気が出るテレビ』の挿入歌に使用された「Runner」は、初のビッグヒットとなった。カラオケでもノリのいい曲として脚光を浴び、また現在でも高校野球ブラスバンド応援歌における定番曲としても定着する。

江川脱退後、ベーシスト不在期間のテレビ出演に際しては、現在同じアミューズ所属サザンオールスターズ関口和之、古くから親交がある聖飢魔IIゼノン石川THE ALFEE桜井賢SHOW-YA仙波さとみプリンセス プリンセス渡辺敦子男闘呼組高橋一也スターダストレビュー柿沼清史カシオペアのキーボーディスト向谷実(シンセベースを演奏)、千葉ローカルタレントジャガーりりィなど数多のベーシスト・ミュージシャンが代役を務めた。その後、兄弟バンド的な存在だったTOPSベーシストだった和佐田達彦(バーベQ和佐田)が正式メンバーとして加わった。爆風スランプとしてのメンバーチェンジはこの時のみ。

同時期に活躍した聖飢魔IIやTOPSとは親交が深かったこともあり、共同でライブを行なったり、TOPSボーカルの三井雅弘は1989年の大幅なメンバーチェンジの時に、爆風スランプのマネージャーに就いた。プリンセス プリンセスとは、中野が住んでいたアパートに彼女たちのプロデューサーが住んでいたこともあり、よく一緒に酒を飲み、この時、「私達、本当に売れたいんです。」と中野に話していたという。
ヒット曲の連発?長期休養

1989年、代官山プロダクションの実質的な親会社であったアミューズに移籍後も、「月光」、「リゾ・ラバ」、アルバム『しあわせ』収録「大きな玉ねぎの下で」のリメイク・ヴァージョン「大きな玉ねぎの下で ?はるかなる想い」と立て続けにヒットを記録した。

この時期、日本テレビ冠番組爆風スランプのお店(爆店)』が放送された。その後、メンバーの疲労も蓄積したため、個々のメンバーが海外へ出向き長期休暇を取ることとなった。

海外での経験はアルバム『ORAGAYO ?in the 7th heaven?』に生かされ、中野・河合が南アフリカでの政治デモで演奏した「The 7th Heaven」(生録音)が収録。中国へ出向いた末吉はそれ以来中国に魅せられ、遂には中国に活動の主軸を移し、"Asian Drum King"と呼ばれるようになったが、長期休養後に発売されたアルバム・シングルの売れ行きは共に芳しくなかった。
低迷期・ソロ活動

ORAGAYO ?in the 7th heaven?』の後に発売されたアルバム「青春王」はヒット曲「Runner」と同様に「青春」を軸に制作されたアルバムだが、売上は芳しくなかった。メジャー・デビュー前後の「破天荒」、ミリオン・ヒットを生み出した「青春」という主軸を失った爆風スランプは、ヒット曲らしいヒット曲は「涙2(LOVEヴァージョン)」のみで、長い低迷期をさまようこととなった。

その間、各メンバーはソロ活動を行なうようになり、それぞれ成果を上げている。

1992年11月6日、「ミュージックステーション」に出演、サンプラザ中野が客席へダイブ。豆電球2個とパネル1枚を破損するなど、破天荒さの片鱗を留めた姿も見せた。

サンプラザ中野

ジングルベルコンピレーション『Jingle All the Way!』(バップ)で「ジングルベル?サンタさんとトナカイさん?」を収録

1996年にパッパラー河合と女王様というユニットを組んでデビュー、クイーンなどの英語詞を直訳した曲をリリース(当時は王様のヒットもあり、直訳ロックが流行していた)


ファンキー末吉バーベQ和佐田

BBF(「爆風スランプのバーベQ和佐田とファンキー末吉」の略語)というユニットを組み、アルバム「ZUM ZUM PARADISE」をリリース


ファンキー末吉

ロックバンド「NOISE FACTORY」のプロデュース

中国でのアーティストのプロデュース

ソロアルバム「亜洲鼓魂」のリリース


パッパラー河合

1996年よりサンプラザ中野くんと女王様として活動

ポケットビスケッツのプロデュース・作曲


電波少年とのタイアップ

進め!電波少年」の企画「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」の応援曲として「旅人よ ?The Longest Journey」が採用され、企画の人気と同様、ヒット曲となった。直後に発売されたアルバム『怪物くん』は2枚組(初回限定盤)で発売。爆風スランプ・レコード会社の力の入れ様が窺われるものだった。
活動休止

1998年3月、32枚目のシングル『暖かい日々』を発売し翌4月1日に13枚目のオリジナル・アルバム『ハードボイルド』を発売。

1999年4月、活動休止を発表した。
活動休止後

1999年4月に活動休止後、中野と河合はスーパースランプを再結成。


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