爆笑問題
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またこの時期、田中は主にコンビニエンスストアミニストップ)のアルバイトで、太田は妻の太田光代のアルバイトやパチンコパチスロでの稼ぎで生計を立てていた。太田は暗算が非常に苦手で、レジのバイトをすると客から苦情を言われないようにと釣銭を多く渡すなどまともにアルバイトせず、借金取りから逃げるために居留守を使う目的で家に引き篭りファミコン漬けの日々だった。また、田中が売れ残ったコンビニ弁当を届ける際にも顔を出さなかった[6]。一方の田中は実家に住んでいたため生活に困る事はなく、アルバイトの方も「このまま社員にならないか」と声をかけられるほどの仕事ぶりであった。しかし、3年間全く仕事がなかったわけではなく、テレビは事務所の力関係のないNHKテレビ東京[注釈 1]の番組への出演が中心となり[7]、俳優業なども行いオムニバスドラマ番組『悪いこと』(フジテレビ・共同テレビ)では脚本(太田)・出演(太田、田中)、オムニバス映画バカヤロー!4』(森田芳光プロデュース)の中の1本では監督(太田)を務めた。また、お笑い活動では営業として数多くの予餞会でネタを披露した。自称「日本一予餞会に出た芸人」。

1993年に自らの芸能事務所タイタン」を設立[注釈 2]社長には元芸人で太田の妻の太田光代が就き、同年NHK新人演芸大賞を受賞。1994年には、『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』(テレビ朝日系)で10週勝ち抜き初代チャンピオンになり再ブレイクのきっかけを果たした。『タモリのSuperボキャブラ天国』(フジテレビ系)の「ボキャブラ発表会 ザ・ヒットパレード」に出演。この番組でネプチューン海砂利水魚をはじめとする当時キャブラーと呼ばれた若手芸人たちの出世頭となり、再ブレイクのきっかけをつかむ。『黄金ボキャブラ天国』では初代名人に。当時のキャッチフレーズは「不発の核弾頭」。

普段のネタは太田が書いているが、『ボキャブラ』のネタは田中がほとんど書いていた。そもそも田中が作っていたのはダジャレの部分だけで、そのダジャレを際立たせるコント部分は太田が作っていた。

2008年、コンビ結成20周年。2月発売の『Quick Japan』76号(太田出版)に吉田豪によるロングインタビューが掲載。また、テレビ朝日系で同年6月25日26日に「爆笑問題結成20周年記念 2夜連続特別企画」として、『今すぐ使える豆知識 クイズ雑学王』及び『爆笑問題の検索ちゃん』の2時間特番が放送された。

2018年にコンビ結成30周年。それを記念して8月30日31日9月1日の3日間開催された単独ライブ『O2-T1』では漫才を一切行わず太田の脚本によるストーリー性のある5つのコントのみで構成。「病院の待合室」「数字男」「二人の兵士」「医者と患者」「爆チュー問題」が披露され、それぞれ別個のコントでありながら一つ一つがストーリーとして繋がっていくスタイルを採用した[9][10]

受賞歴

1993年NHK新人演芸大賞受賞[11]

1994年GAHAHAキング 爆笑王決定戦10週勝ち抜き初代チャンピオン

1994年:日本映画プロフェッショナル大賞・新人奨励賞を太田光が受賞

1997年国立演芸場花形演芸会 銀賞受賞

1998年:国立演芸場花形演芸会 金賞受賞

1998年:ゴールデン・アロー賞芸能賞受賞

1999年浅草芸能大賞新人賞受賞

2000年:国立演芸場花形演芸会 審査員特別賞受賞

2000年:笑芸人大賞 銀賞受賞、ちなみに金賞はビートたけし

2001年:国立演芸場花形演芸会 特別大賞受賞

2003年:リスクコンサルタントオブザイヤー 特別賞受賞

2006年:万年筆が似合う著名人 芸能・ファッション部門を太田光が受賞

2006年:芸術選奨文部科学大臣賞放送部門受賞[11]放送部門のバラエティージャンルからは史上初の受賞となった。理由は「タモリ、たけし、さんまの存在が圧倒的な中、10年以上もポジションを得て常に成長しながら抜群の安定感を見せている」とのことである。この受賞は、受賞発表の直前に急逝した久世光彦の強い推薦によるものという。2人が進行するテレビ番組『爆笑問題のススメ』(札幌テレビ日本テレビ系、2005年12月10日深夜)に久世光彦がゲスト出演したことがきっかけで、久世が「あの2人にあげればいいじゃないか」と言い切ったといわれる。また、この時同時に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した人物に画家の和田義彦がいるが、その後和田は盗作疑惑で世間の耳目を集めることとなる。この盗作に関する一連のテレビ報道において使用された受賞者が正装して勢揃いした映像では、和田のすぐ後ろに爆笑問題の2人が立っている。

2007年ゆうもあ大賞を太田光が受賞

2008年:日本大学藝術学部 日藝賞受賞[11]

2012年喜劇人大賞特別賞受賞

2020年:第57回ギャラクシー賞ラジオ部門DJパーソナリティ賞受賞[12][13][14][15][16]

2020年:浅草芸能大賞奨励賞受賞

エピソード
大学時代

2人の出会いは日本大学芸術学部の試験会場であり、試験会場で試験官を茶化していた太田を見た田中は「関わり合いになりたくない」と思っていた(とはいえ田中は、どうせ合格出来ないだろうと思い、試験当日は直前まで草野球をしていたため、野球のユニフォームを着て受験に臨んでいた[17])。入学後、大学のトイレで再会し、「こいつも合格していたのか」と思い太田に話しかけた所、太田は受験会場の様子とは全く違い、律儀な受け答えをしていた。また、太田が入学後の最初の授業でも騒いで他の生徒達を盛り上げたが、田中はその雰囲気に乗らなかった。また、お互いにサザンオールスターズのファンということも仲良くなるきっかけの一つだったため、田中は「サザンがいなかったら? おそらく爆笑問題は誕生していないですね。まず太田と仲良くなってたかどうかが危ういんで。友だちの延長上に爆笑問題がありました」と語っている[18]

日本大学芸術学部時代の取得単位は、2人合わせて17単位だった。しかも太田は2単位しかとっておらず、そのうち1つはスキー合宿の参加者全員にもらえる単位だった[19]。太田は後に、日芸の教授を「俳優になろうとしてなれなかった奴らの溜まり場。俳優を育てようなんてなんも思っちゃいない」と批判しては、講義を欠席していた。

元マネージャーは2人の同級生で、18歳の時から30年近い付き合いだった[20]
プライベート

プライベートでは田中は太田を「光」と呼び、太田は田中を「小僧」と呼ぶ。田中が仕事のときに太田を「太田さん」と呼ぶのは仕事とプライベートの区切りをつけるためであり、太田が田中を「小僧」と呼ぶのは、「田中」では誰のことかわからないと感じているため[21]

また、お互いはごく近所に暮らしている(太田は「田中がこっちに引っ越してきたんだ」と冗談として言い[注釈 3]、田中は「お前が俺の生まれ故郷(東京)にやってきたんだろ」と突っ込むやりとりをする事が多い[注釈 4])。


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