爆撃機
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双発(エンジンが2基)の爆撃機は敵の都市を爆撃したが、速度が100 km/hを少し上回る程度で、敵戦闘機の目を逃れるために主に夜間爆撃を行った。ロシアで世界初の4発の大型重爆撃機イリヤー・ムーロメツが製作されたのを皮切りに、大戦後半にはドイツでゴータ爆撃機が製作された。爆撃機は誕生すぐに防御用機銃を装備していた。イギリスでは魚雷により艦艇を攻撃する雷撃機が実用化された。

長距離爆撃機による夜間爆撃は 戦線よりはるか後方にある都市を攻撃して非戦闘員である一般市民を戦闘に巻き込むという新しい戦争の形態を生む。なお第一次世界大戦期には、飛行機と併せて同じく航空機の一種である飛行船による都市爆撃も行われた。

1920年代まで、軍用機といえども複葉帆布張りが主体であった。このころの最優秀機としてイギリス「ホーカー・エアクラフト社」の「ハート」がある。複葉ではあるがスマートな機体に500馬力水冷エンジン1基を装備し、200 kgの爆弾を積んで300 km/hで飛んだ。
第二次世界大戦

1921年航空戦力の本質を攻勢とし空中からの決定的破壊攻撃を説いたジュリオ・ドゥーエ(イタリア)の『制空』が発刊され、1927年ころには世界的反響を生んだ[9]ドゥーエミッチェルに代表される制空獲得、政戦略的要地攻撃を重視するには戦略爆撃部隊の保持が好ましく、1930年代には技術的にも可能となり、列強は分科比率で爆撃機を重視するようになった[10]

第2次世界大戦では爆撃機が戦争の行方を決定するのに大きな役割を果たした。当時は約8トン搭載のB17Gや約9トン搭載のB29Aが最大級の搭載量であった[1]

1930年代に、機体はアルミ合金の全金属製で翼は単葉、エンジンは水冷式または空冷星型で1,000馬力を超え、も引き込み式に近代化していった。またこの時代に爆弾命中率を飛躍的に高めた急降下爆撃機が開発された。

この時代各国とも軽快な単発または双発の高速機(400 km/h前後)を製作していたが、アメリカのボーイング社だけは将来の爆撃機として4発重爆撃機「B-17」を開発した。各国海軍は雷撃が得意な機体を開発したが、日本の陸上攻撃機は遠い海上にいる敵艦を攻撃するために4発機並みの4,000 kmを超える航続距離を持っていた。ヨーロッパの爆撃機は想定される戦場が近いため、航続距離は2,000 km程度であった。

大規模な航空母艦を含む艦隊を擁する日・米・英では、第二次世界大戦初期に活躍する艦上爆撃機艦上攻撃機が実用化された。

第二次世界大戦は航空機を主体とした総力戦となった。戦争初期は十分な戦争準備をしていたドイツ空軍(ルフトバッフェ)がヨーロッパ上空を席巻し、同様に準備の整った日本陸海軍の航空隊が太平洋の米英戦艦や地上基地、港湾や工場群といった主要目標や重要施設を壊滅させた。その後圧倒的生産力を持つアメリカが多数の爆撃機を生産し、米国機がヨーロッパと太平洋の上空を覆うようになった。イギリスとソ連も特徴ある機体を多数製作し、ドイツを東西から締め付けた。

陸戦において、単発の軽爆撃機は対地支援に必要不可欠なものとなったが、敵戦闘機の前にはあまりに無力で、戦闘機を爆装した戦闘爆撃機へと取って代わられていった。

英米は大量の爆弾を搭載できる4発重爆撃機を次々に製作し、日独の都市や工場を爆撃して両国の継戦能力を奪った。また日本近海への空中投下機雷による海上封鎖で生じた国内航路船舶の被害は、潜水艦による通商破壊と共に日本の体力を奪った。これに対し枢軸側は4発重爆撃機を本格生産できないまま敗戦を迎えた。

海では航空母艦から発進した爆撃機や攻撃機が海上戦力として最も有効である事が明らかになり、更に地上攻撃にも柔軟に対応できた結果、制空権制海権という状況になった。従来の主力であり制海権を担ってきた戦艦は価値が低下し以後建造されなくなった。また潜水艦を探知し攻撃する機能を備えた対潜哨戒機が生まれた。

大戦後半は各機とも2,000馬力級のエンジンを装備した。機体はアルミニウム合金ジュラルミン)が主体であったが、モスキートのような木製機や、防御力を考慮し鋼製構造を採用したIl2のような異端もいた。また戦況に影響を及ぼすほどにはいたらなかったが、ドイツは世界初のジェット爆撃機Ar234を実戦投入している。
冷戦

第二次世界大戦が終わった後、米・ソ・英・仏・中国で核兵器が実用化されると同時に、東西陣営に分かれて冷戦時代に突入した。爆撃機には仮想敵国の主要部に核爆弾を落とす能力が求められるようになり、この長距離侵攻作戦を実施できる機体は戦略爆撃機と呼ばれ、当然のことながら大型の機体に核爆弾を搭載した。別途局地的な紛争への対応や、仮想敵国周辺部への攻撃を担当する戦術爆撃機が作られたが、こちらは核爆弾運用能力の無いものも多かった。エンジンは終戦直後に作られた機体以外はジェット化され、超音速機も多数制作された。ベトナム戦争では上述の核攻撃を前提として開発された爆撃機はその搭載量から通常爆弾による戦術/戦略爆撃(いわゆる北爆)に用いられ、折しも発展しつつあった地対空ミサイルや濃密な対空砲陣地に多大な被害を受けた。

また、戦闘攻撃機トーネードIDSが9トン以上、F/A-18Cは7トン以上の爆弾類を搭載できるようになり、第2次世界大戦時の爆撃機並みの搭載量を持つようになったが、爆撃機もB-52Hは27トン、B-1Bは34トン、B-2Aは22トンと搭載量が増加している[2]
冷戦後

核兵器のような大量破壊兵器を使用する場合には、爆撃機のような搭載量は必ずしも必要なくなり、爆撃機部隊を維持するコストもかかるため一定規模の爆撃機部隊を有している国家は激減した。戦略目標の爆撃に戦術機の戦闘攻撃機で核兵器を投入できるようになり、明確な戦術機と戦略機の区別もなくなった。

ただ戦略目標攻撃の爆撃機の価値が下がったわけではなく、大陸間弾道ミサイル潜水艦発射弾道ミサイルとともに戦略核兵器の3本柱の一角であることに変わりはない。


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