アントワーヌ・ラヴォアジエもまた、熱物質説をとった科学者であったが、フロギストン説には疑問を感じていた。彼は、金属を燃焼すると質量が増すという実験結果などを元に、当時まで信じられてきたフロギストン説を否定した。そして、物質の燃焼において中心的な役割をするのは、物質に含まれるとされていたフロギストンではなく、空気中に含まれる酸素であると提唱した。その一方でラヴォアジエは、酸素は、現在考えられているような酸素分子ではなく、「酸素の基」と「火の物質」から成るものであると考えていた。そしてこの「火の物質」は、後にカロリックと呼ばれた[11]。
ラヴォアジエの熱理論は1777年に発表され、カロリック(フランス語:calorique[注釈 1])という語は1787年にギトン・ドゥ・モルヴォとの共著『化学命名法』においてはじめて登場した[12][注釈 2]。この理論は1789年の著書『化学原論(英語版)』によって完成され、同書に掲載されている元素一覧でも酸素や水素などと並んで、光素と熱素が記されている。ラヴォアジエは、それまで同一視されてきた光、火、熱を分離し、光は光素、火は酸素、そして熱は熱素によるものだと捉えたのである。このカロリック説は、ラヴォアジエがその後功績を積み重ねてゆくにつれて、多くの科学者に認められるようになった[13]。 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2022年3月) ラヴォアジエは『化学原論』に先立つ1783年にラプラスとの共同研究で、化学変化の前後で熱量(カロリック説の言葉でいう、カロリックの量)は保存するという法則を提唱した。これは熱量保存則と呼ばれる。この法則自体はカロリック説を前提とした理論ではなく、実際ラプラスは当時熱運動説の支持者であった(後に熱物質説へと転向)。しかし、結果的に熱量保存則は、熱力学第一法則が確立されるまで、カロリック説に立脚する熱学の基本法則とされるようになった。 こうして基礎が形作られたカロリック説はその後、ゲイ=リュサックやジョン・ドルトンによる気体の熱的研究によって進められてゆくのだが、はじめは熱容量などの扱いをめぐって2派に分かれていた。 1つは、物質に含まれるカロリックの量は、その物質の熱容量に比例するという考えである。例えば、物体が固体から液体になる時には、熱容量(比熱)が大きくなるため、物質が含むことの出来るカロリックの量が多くなり、物体は周囲からカロリックを吸収する。こうした熱容量の変化は、気体の膨張や圧縮の際にも起こり、気体が圧縮された時は熱容量が減少するため、物質が含むことの出来るカロリックの量も少なくなり、余ったカロリックが熱として周囲に放出される[14]。この現象は、水を含んだスポンジを圧縮すると、スポンジから水が溢れ出す現象に例えられる。この説は元々ブラックの弟子のウィリアム・アーヴィンによって生み出されたもので、後にアデア・クロフォード
説の発展.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
もう1つの考えは、カロリックには、温度の変化を引き起こすものと、引き起こさないものの2種類あるというものである。温度の変化を引き起こさないカロリックは、物体に束縛されている。これを潜熱と呼ぶ。物体が固体から液体に変わる時は、物体が受け取った熱の一部が潜熱となったと解釈できる。この説ははじめブラックによって考えられ、後にラヴォアジエ、ゲイ=リュサック、ラプラスによって進展した(同様に、これを「ラプラス流」と呼ぶ)。
ゲイ=リュサックの実験ゲイ=リュサックが行った気体の膨張実験の仕組み。のちにジュールも同様の実験を行った。
1806年、ゲイ=リュサックは、気体の比熱を求めるための実験を行った。2つの容器をつなぎ、真ん中に弁をつけ、片方の容器に気体を入れる。もう片方の容器は真空にする。そして弁を開けると、気体が真空の容器に流れ込む。この時の両方の容器の温度変化を求める[注釈 3][16]。
結果、弁を開けた直後、気体の入っていた容器の温度は若干下がり、真空だった容器の温度はそれと同じだけ上がり、その後はやがてどちらの容器も実験前の温度に戻った。また、容器の初めの温度変化は、気体が入っていた容器の実験前の圧力が高いほど大きかった。
ゲイ=リュサックはこの結果から、アーヴィン流の熱理論の欠陥を指摘した。アーヴィン流では、気体が膨張する時は比熱が増加し、周囲からカロリックを取り込む。つまり気体の密度が下がると比熱は増加することになるので、真空だと比熱は最大になる。しかし実験では、初めの圧力が小さい、つまり容器内の密度が小さい場合は、温度変化は小さくなる。温度の変化が比熱に比例するならば[注釈 4]、真空での比熱は最小、つまりゼロにならなければならない[17]。
よってゲイ=リュサックは、「空気で満たされた空間よりも真空の空間のほうが多くの熱素を含むと信じる人の見解は、まるで根拠がない[18]」と述べたが、一方で、「この結果の解釈がいかに誤りやすいものであるかを自覚しているので、これらの結論をごく控え目に提示しているにすぎない」とも記し、積極的な批判は控えた[18]。
なお、現在の観点から考えれば、この結果はアーヴィン流のみならず、ゲイ=リュサックの支持していたラプラス流のカロリック説をも否定するものであった。というのも、ラプラス流によれば、気体は膨張するとき、カロリックの一部が「潜熱」となり、温度としては現れなくなるのだから、実験の前後で全体の温度は下がらなければならないからである。しかしこの点は当時見過ごされ、そしてこの実験自体も、後にマイヤーが取り上げるまで忘れ去られていった[19]。
ランフォードの実験ベンジャミン・トンプソン
ベンジャミン・トンプソン(ランフォード)は、1778年から始めていた火薬の研究中に、大砲の中に弾丸を入れずに火薬を発射させると、弾丸を入れた時よりも砲身が熱くなることに気付いた。ランフォードはここから、弾丸を入れないときには、本来弾丸を発射させるのに使われる火薬の作用が、砲身の金属粒子を動かすのに使われたため、その結果余分に熱が発生していると推測し、熱の運動説へと傾いていった[20]。
ランフォードが本格的にカロリック説を否定するようになったのは、大砲の砲身を削る工程で大量の熱が発生しているのを見たことがきっかけだった。1796年および1797年、同じ工程を水中で行ったところ、水が沸騰するほどの熱が発生した。また、この工程で生じた金属の削りかすの比熱を測定したところ、それは実験前の値と変わりなかった。この結果からランフォードは、熱の本質がカロリックならば、熱が生み出された分だけ削られた金属のカロリックが少なくなっているはずなので、比熱は変化していなければならないはずだと論じた[21]。さらに、この実験で生み出される熱は無尽蔵といえるほどの量なので、これが熱的に外部と遮断された実験装置の中から現れ出たとは考えられないと結論づけ、熱の物質説に疑問を呈し、熱が運動以外のものとすると、そのものに明確な観念をもつことは著しく困難であるとした[22]。
ハンフリー・デービーはこのランフォードの意見に賛同し、自らも1799年、2個の氷を摩擦すると熱が発生して溶解するという実験を行った[23]。
ランフォードは1804年に書かれた手紙で、「私はカロリック説とフロギストン説とが同じ墓場に埋葬されるのを見る満足をえるまで生きられると信ずる」と記した[24]。しかし実際にはランフォードの支持者はデービーの他にはトマス・ヤングら少数にとどまり[23]、カロリック説はランフォードの死(1814年)以後も生き延びた[25]。この当時、断熱圧縮の際に熱が発生することはすでに知られていて、研究も進められていたため、カロリック説の支持者はランフォードの実験についても、この研究を当てはめる形で説明しようとした。例えばドルトンは、熱が発生したのは砲身を削り取る作業で金属が圧縮され熱容量が下がったためだと反論した。ラプラス流の論者も、金属内に潜熱として隠れていたカロリックが現れたために熱が発生したと主張した[26]。
新しい温度目盛の考案