熱素
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そしてそれに伴って、熱波動説も支持されるようになってきた[44][45]。ゲイ=リュサックも1820年の講義で、熱の原因はカロリック説と波動説があることに触れたが、波動説はまだすべての熱的現象を説明できていないため、自身としては旧来のカロリック説を維持すると述べた[46]。一方でカルノーは、『火の動力』執筆後まもなくに書かれたノートでカロリック説を否定し、熱の運動説へと傾いていた。またジョゼフ・フーリエは、1822年に著書『熱の解析的理論』にて熱伝導の方程式などを導いたが、そこでは熱の本質を断定せず、どちらの説でも成り立つように理論を構成した[47][48]
説の否定ジュールによる実験装置

熱とは物質が振動することによって波動として伝わってゆくものだとする熱の波動説の支持者に対して説明が求められたのは、熱を伝える物質のない真空中でも熱が伝わるという事実だった。この事実は、熱は通常の物質とは異なるものだとするカロリック説に有利なものだとされていた。熱波動説の支持者は真空中にはエーテルが存在していて、それが振動によって伝わると説明した[49]

やがて熱波動説が受け入れられていくと、カロリック説の支持者のなかには、このエーテルの概念をカロリックにあてはめることもあった。すなわち、熱はカロリックが振動することで伝わるとする考えである。このように、カロリック説の支持者のなかでも、カロリックの定義は大きく分かれるようになっていった[50]。そのような中でも、説の支持者の間で見解が統一されていたのが、カロリックの存在、及びその量が保存するという熱量保存則であった[51]。したがって、熱量保存則が成立しない事象(熱による仕事の創出、仕事による熱の創出)についての定量的な論展開が必要であった。

このような中で、1843年ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤーは、運動のエネルギーが熱に、あるいは逆に熱が運動のエネルギーに変わり得ることを明らかにした。1845年ジェームズ・プレスコット・ジュールは、実験を元に熱の仕事当量を算出した。また1847年ヘルマン・フォン・ヘルムホルツも、熱と仕事の等価性について論じた。このような一連の研究により熱力学第一法則(エネルギー保存の法則)が確立されると、この法則が熱量保存則では説明できない事象も含む広い範囲で成立することが明らかになり、熱量保存則に立脚していたカロリック説はその意義を失った。その後、熱が分子の運動であるとする熱の分子運動論が建設されるとともに、また熱力学の成立とともに熱素説は消滅した。
カロリックの性質

カロリックの性質は、時代や当時の科学者によって見解が異なる。ラヴォアジエらによれば、基本的には以下の性質を持つ[52]

カロリックは互いに反発する

カロリックは他の粒子に引き付けられる。カロリックを引き付ける力の大きさは、その物質によって異なる

カロリックは質量を持たない

カロリックは、物質粒子と化学的に結びつくと、知覚されなくなる

カロリックは壊されることも、新たに作られることもない

熱現象の解釈

カロリック説が信じられていた当時は、様々な熱的現象がこの説を元に説明されていた。
熱膨張

物体に熱を加えると膨張する。これは、物体内のカロリックの量が増え、その斥力により物体を押し広げたからだと説明できる[53]
三態

固体に熱を加えると、やがて液体気体になる。これも熱膨張と同様に、カロリックの増加で説明できる。

ラヴォアジエによると、物体の状態は、粒子同士をつなぎとめる力(引力)と、引き離す力(斥力)の力の関係性で決まる。そして、斥力に当たるものが熱(すなわちカロリック)である。固体は引力の方が勝っているのでその形状を保っている。熱が加わる(すなわちカロリックが増える)と、カロリックの性質である反発力により物体の斥力が増し、物体は液体となる。さらにカロリックが増えると斥力は完全に引力を上回り、物体は気体となって拡散する[54]
比熱・熱容量

同体積の水と水銀を、共通の熱源から等しい距離に置き、同時に温めると、水銀の方が温度が早く上昇した。これはジョージ・マーチンが1739年に行った実験である。また、ファーレンハイトは、温度の異なる水と水銀を混合させると、混合したときの温度は両者の中間ではなく、それよりも水に近い温度になるという結果を出している[55]。すなわち、水銀は水よりも温まりやすいことになる。

この事実は、当時の熱の運動説では説明できないものであった。何故なら、熱が粒子の運動であるならば、密度の高い水銀の方が動かさなければならない粒子の数は多く、それだけ温まりにくくなるはずだからである[55]

カロリック説ではこの問題は、水と水銀ではカロリックをひきつける力の大きさが異なるためだと説明できる。ブラックは、ファーレンハイトの実験からさらに研究を進め、比熱や熱容量の概念を作り上げた[56]
断熱変化

気体の入った容器の体積を、外から熱が加わらないように急激に増加させると、容器内の気体の温度が下がる。これは現在では、容器内の気体分子の運動エネルギーが、容器を押し広げるための仕事に費やされ、その分、容器内の気体分子の運動エネルギーが減少し温度が下ったと定量的な説明でき、熱の運動説の根拠の1つと考えることも出来る。しかし、この現象はカロリック説でも説明が可能( 定量的ではないが)である。

ドルトンは、温度が下がったのは、気体の熱容量が大きくなり周囲の熱を奪ったためだと説明した(この時点ではドルトンはアーヴィン流の熱理論論者だった)。ただし、この理論では、体積が増す、すなわち容器の密度が下がるにつれて熱容量は大きくなり、真空が最大の熱を持つということになる。このことは一見理解しがたいが、気体に熱を加えると膨張して密度が下がるという事実を踏まえれば、当時は納得できるものでもあった[57]

ラプラス流でもこの現象は潜熱の概念で説明できる。膨張すると、容器内の熱(カロリック)は潜熱となり、知覚されなくなるのである。

断熱変化の現象自体はボイルによって1662年に発見されたが、その後の研究はクレグホン(ブラックの教え子)、ドルトン、ラプラスなど、カロリック説の支持者によって行われた。そして1820年代までは、現在とは逆に、断熱変化はカロリック説の強力な証拠だと考えられていた[58]。しかし、当時の説明は定量的ではなかった。
盛衰

カロリック説はそれ以前からの熱物質説の流れをくむものであり、それに対する説としては熱の運動説があった。そして現在では熱は運動であるとされており、カロリック説は否定されている。にもかかわらずカロリック説が18世紀に広く受け入れられた理由には、それが実験的なデータをもとに理論的に構築されていたことにある。また、カロリック説は当時さまざまな熱現象を説明できていた[59][60]。そのため、ランフォードらの実験でカロリック説に不利な結論が出ても、今までの説を即座に捨て去ることは出来なかった[61]

一方その当時の熱の運動説は、定量的な理論を作り上げることが出来ていなかった[53]。また熱の運動説は、摩擦による発熱は良く説明できたが、それ以外の熱現象については、カロリック説と比べると説明に難があった[59]。現在のように熱の運動説が広まるためには、熱の運動説による定量的な理論、すなわちエネルギー保存則の誕生を待たなければならなかったのである[62]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ もともとはフランス語で「calorique」。英語へ翻訳する時にcaloricとされた。
^ なお、カロリックはラヴォアジエの造語であるとされる見方が一般的だが、杉山は、形容詞「calorifique」を元にギトン・ドゥ・モルヴォが「calorique(カロリック)」という語を作り、ラヴォアジエがそれを採用したと推測している。
^ ただし現在の観点からみれば、この実験では気体の比熱を求めることはできない(山本(2009) 2巻p.92)
^ ゲイ=リュサックはこの実験での温度の変化が比熱に比例するという前提で議論を進めたが、実際はこの仮定には根拠がない(山本(2009) 2巻p.94)。
^ ただし懸賞論文とはいうものの実際に応募されたのは2通のみで、しかも実験内容はどちらもほぼ同じであった。にもかかわらずドラローシュとベラールのほうが採用されたのは、もう一方の論文(クレマンとデゾルムの共同論文)は結論がアーヴィン流を支持するものであったのに対し、ドラローシュとベラールの論文はラプラス流を支持していたからである。実は当時のフランス学士院はゲイ=リュサックをはじめとしてラプラス流の支持者で占められていて、懸賞論文自体もラプラス流の優位性を確固たるものにするために企画されたのである(山本(2009) 2巻p.100、杉山(村上編(1988)) p.xxxiなど)。

参照元^ 高林(1999) p.26
^ a b 高林(1999) p.27
^ 山本(2008) 1巻pp.45-49
^ 高林(1999) p.28
^ 山本(2008) 1巻p.156
^ 大野(1992) p.660
^ 高林(1999) p.40
^ 山本(2008) 1巻p.216


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