熱素
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この時の両方の容器の温度変化を求める[注釈 3][16]

結果、弁を開けた直後、気体の入っていた容器の温度は若干下がり、真空だった容器の温度はそれと同じだけ上がり、その後はやがてどちらの容器も実験前の温度に戻った。また、容器の初めの温度変化は、気体が入っていた容器の実験前の圧力が高いほど大きかった。

ゲイ=リュサックはこの結果から、アーヴィン流の熱理論の欠陥を指摘した。アーヴィン流では、気体が膨張する時は比熱が増加し、周囲からカロリックを取り込む。つまり気体の密度が下がると比熱は増加することになるので、真空だと比熱は最大になる。しかし実験では、初めの圧力が小さい、つまり容器内の密度が小さい場合は、温度変化は小さくなる。温度の変化が比熱に比例するならば[注釈 4]、真空での比熱は最小、つまりゼロにならなければならない[17]

よってゲイ=リュサックは、「空気で満たされた空間よりも真空の空間のほうが多くの熱素を含むと信じる人の見解は、まるで根拠がない[18]」と述べたが、一方で、「この結果の解釈がいかに誤りやすいものであるかを自覚しているので、これらの結論をごく控え目に提示しているにすぎない」とも記し、積極的な批判は控えた[18]

なお、現在の観点から考えれば、この結果はアーヴィン流のみならず、ゲイ=リュサックの支持していたラプラス流のカロリック説をも否定するものであった。というのも、ラプラス流によれば、気体は膨張するとき、カロリックの一部が「潜熱」となり、温度としては現れなくなるのだから、実験の前後で全体の温度は下がらなければならないからである。しかしこの点は当時見過ごされ、そしてこの実験自体も、後にマイヤーが取り上げるまで忘れ去られていった[19]
ランフォードの実験ベンジャミン・トンプソン

ベンジャミン・トンプソン(ランフォード)は、1778年から始めていた火薬の研究中に、大砲の中に弾丸を入れずに火薬を発射させると、弾丸を入れた時よりも砲身が熱くなることに気付いた。ランフォードはここから、弾丸を入れないときには、本来弾丸を発射させるのに使われる火薬の作用が、砲身の金属粒子を動かすのに使われたため、その結果余分に熱が発生していると推測し、熱の運動説へと傾いていった[20]

ランフォードが本格的にカロリック説を否定するようになったのは、大砲の砲身を削る工程で大量の熱が発生しているのを見たことがきっかけだった。1796年および1797年、同じ工程を水中で行ったところ、水が沸騰するほどの熱が発生した。また、この工程で生じた金属の削りかすの比熱を測定したところ、それは実験前の値と変わりなかった。この結果からランフォードは、熱の本質がカロリックならば、熱が生み出された分だけ削られた金属のカロリックが少なくなっているはずなので、比熱は変化していなければならないはずだと論じた[21]。さらに、この実験で生み出される熱は無尽蔵といえるほどの量なので、これが熱的に外部と遮断された実験装置の中から現れ出たとは考えられないと結論づけ、熱の物質説に疑問を呈し、熱が運動以外のものとすると、そのものに明確な観念をもつことは著しく困難であるとした[22]

ハンフリー・デービーはこのランフォードの意見に賛同し、自らも1799年、2個の氷を摩擦すると熱が発生して溶解するという実験を行った[23]

ランフォードは1804年に書かれた手紙で、「私はカロリック説とフロギストン説とが同じ墓場に埋葬されるのを見る満足をえるまで生きられると信ずる」と記した[24]。しかし実際にはランフォードの支持者はデービーの他にはトマス・ヤングら少数にとどまり[23]、カロリック説はランフォードの死(1814年)以後も生き延びた[25]。この当時、断熱圧縮の際に熱が発生することはすでに知られていて、研究も進められていたため、カロリック説の支持者はランフォードの実験についても、この研究を当てはめる形で説明しようとした。例えばドルトンは、熱が発生したのは砲身を削り取る作業で金属が圧縮され熱容量が下がったためだと反論した。ラプラス流の論者も、金属内に潜熱として隠れていたカロリックが現れたために熱が発生したと主張した[26]
新しい温度目盛の考案

熱の本質がカロリックであるならば、温度は「カロリックの量」を基準とした温度目盛で表すことができるという考えが、ドリュクやクロフォードによって生まれた。この理論によれば、温度はカロリックの量に比例し、比熱は温度によらず一定の値で表すことができる[27]

1801年、ドルトンは、気体の膨張率は、同じ温度であれば気体の種類によらず一定の値をとることを実験により明らかにした。また、ラプラスとゲイ=リュサックも共同で、ドルトンとは独立に同じことを見出した[28]。一方で、液体や固体の場合は、膨張率は物体によって異なる。気体と液体・固体のふるまいが異なる理由について、ドルトンとゲイ=リュサックはどちらも、気体の場合は分子の形や分子間の引力などの影響を受けにくく、その分熱の力が際立って見えるからだろうと推定した[29]

このことからドルトンは、本来のカロリックの量を測るためには、従来の水銀温度計とは異なる指標が必要だと考えた。ドルトンが支持していたアーヴィン流のカロリック説によれば、温度が上昇し物体が膨張すると、熱容量が大きくなる。すなわち、低温の時に比べて、温度を1度挙げるのに必要な熱の量は多くなる[30]。ドルトンは1827年に出された著書『化学哲学の新体系』において、この点を考慮に入れた新しい温度目盛りを発表した[31]

ピエール・ルイ・デュロンとアレクシ・テレーズ・プティも、カロリックの量を基準とした温度目盛を作ることができるという立場に立ち、水銀、銅、白金、ガラスといった物質で、0℃から100℃までの比熱と、0℃から300℃までの比熱を測定した。その結果、比熱は温度をあげると増加し、そしてその増加の割合は物質によってまちまちであることが確かめられた。カロリックの量を基準とした温度目盛を作るには比熱が一定になるように目盛をつければよいが、その比熱の上がり方が物質によって異なるため、このような温度目盛を作ることはできないことが明らかになった[32]
説の統一と完成ラプラス

フランス学士院は1812年、カロリック説の中のアーヴィン流とラプラス流の対立を解決すべく、気体の比熱に関しての懸賞論文を募集した。そしてそれに採用されたドラローシュとベラールの共同論文によって決着した。アーヴィン流では、発熱反応では反応前の熱容量よりも反応後の熱容量の方が小さくならなければならないが、ドラローシュとベラールの実験では、それとは逆の結果が得られたのである[注釈 5]。よって、以降はラプラス流のカロリック説が主流となった。

ラプラスは、1823年の著書『天体力学』において、私は、気体の分子はその引力によって熱素を保持し、その相互間の斥力は熱素の分子の斥力に負うと仮定する。その斥力は、温度が上昇するさいの気体の弾性の増加から明らかである。そして私は、その斥力はきわめて短い距離でしか作用しないと仮定する[33]

と記し、この前提のもとに、実際の測定結果に合うよう、カロリック説の理論を作り上げていった[34]。また同じ時期にポアソンも、断熱変化の研究からポアソンの法則を導き出すなど、ラプラスと同様に解析的熱量学を発展させた[35]

1824年ニコラ・レオナール・サディ・カルノーは『火の動力』を著し、カロリック説を元にカルノーサイクルを提示した。そして、『熱の動力は、それをとりだすために使われる作業物質にはよらない。その量は、熱素が最終的に移行しあう二つの物体の温度だけで決まる。[36]』という、カルノーの定理を発見した。これらの理論の多くは、カロリック説が否定された現在でも有効である。ラプラス、ポアソン、カルノーの研究が、カロリック説における熱学の到達点であった。
熱の波動説の登場トマス・ヤング

カロリック説を前提とした熱現象の理論構築が進められていく一方で、18世紀の終わりごろから、熱放射に関する研究が盛んになっていた。熱の伝わり方としては伝導、対流、放射の3つがあるが、熱放射は熱伝導や対流とは異なり、離れた2点間に直接熱が伝わる。この現象に関しては、カロリックが物体から直接放射されることによって熱が伝わっているとする説と、物体の間にあるカロリックが振動することで伝わっているという2つの考え方があり、その中でも前者が多くの支持を得ていた[37]

一方でこの熱放射に関しては、古くから光との類似性が指摘されていた[38]。そして1800年ウィリアム・ハーシェルは太陽光をプリズムで分け、波長ごとの熱作用の力を調べる実験を行った。その結果、青色の波長から赤色の波長へと近づくごとに熱は強くなり、さらに赤色の波長を越えたあたりに熱は最大になること(赤外線)が確かめられた[39][40]。この実験により、放射熱と光の類似性は確かなものとなった。

ハーシェルの実験に着目したのがトマス・ヤングだった。ヤングはハーシェルの実験と同じ年に、光の波動説を唱えた。さらにヤングは熱に関するランフォードの研究に賛同し、熱は摩擦によって無から生み出されるのだから物質ではないとした。そして熱は光や音と同じように、粒子の振動によって伝わってゆくものだと論じた[41]

当時、光については、この波動説と、ニュートン、ラヴォアジエからの流れをくみ[42]、ラプラスらによっても支持された[43]粒子説が対立していたが、1820年代には波動説が優勢となり、1830年ごろにはその優位は決定的なものになっていた[44]。そしてそれに伴って、熱波動説も支持されるようになってきた[44][45]。ゲイ=リュサックも1820年の講義で、熱の原因はカロリック説と波動説があることに触れたが、波動説はまだすべての熱的現象を説明できていないため、自身としては旧来のカロリック説を維持すると述べた[46]


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