熊野
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歴史
近代まで(明治以前)
熊野国

日本書紀』神代紀(上)によると火の神カグツチを産んだときにイザナミは命を落とし紀伊国熊野の有馬村に葬られたという[8](現在の花窟神社に葬られているとされる)。

また、『古事記』神武東征の段及び『日本書紀』磐余彦の東征の段によると神日本磐余彦(のちの神武天皇)は兄とともに東方遠征に出て熊野の神邑に上陸した[8]神武東征)。熊野で怪しい熊の妖気に当たり気を失ってしまうが、天照大神から剣を得て目覚め、八咫烏の道案内で宇陀に入り橿原宮で天皇として即位したという[8]。この熊野の神邑を新宮市とみる説がある[8](ただし異説あり)。

上古には熊野国があり、成務期までには熊野国造が置かれるようになったが、大化の改新後の孝徳期 (645年?654年)、紀伊国に牟婁郡として併合された。併合前の熊野の範囲は、西は田辺市田辺地域を含まず、東は現在と同じだったが、併合時に、田辺にあった牟婁郷と合わせて牟婁郡とし、その一方でのちの北牟婁郡志摩国英虞郡に移された[4]
紀伊国

熊野三山の歴史は非常に古い(熊野本宮大社の創建は崇神期とされる)が、907年宇多法皇の熊野御幸を契機に、皇族貴族の間に熊野信仰が広まってきた。中世になると、貴族に代わり武士や庶民が熊野詣をするようになった。

天正10年(1582年)に、のちの北牟婁郡が紀伊国牟婁郡に移された。

江戸時代には熊野を含む紀伊国全域が、紀州徳川氏紀州藩となった。
近・現代(明治以後)

廃藩置県後は複数の県(1871年より和歌山県と度会県1876年より和歌山県と三重県)に分割され、1889年、郡も各県2郡ずつ計4郡に分割された。

1936年吉野熊野国立公園設置。
原発反対運動

1967年中部電力による芦浜原子力発電所(計画地は現在の南伊勢町と大紀町にまたがる)の建設計画に反対する非常に大きな運動が起こったため、当時の三重県知事は「終止符宣言」を出し、原子力発電所の計画をいったん停止させた[9]

1971年、熊野灘に面する井内浦(いちうら)での原子力発電所建設の計画が発覚[9]。井内浦は、熊野市中心部から北東に約3キロほどの位置にあった。なお、井内浦での建設が意図された背景には、この前に発表された、芦浜原子力発電所の計画への反発が激しかったことがあげられるという主張もある[9]

中部電力は県と市に正式に協力を求めたが、熊野市の6つの漁協は全て、漁業に深刻な影響を与えるとして猛反対を行った[9]。当時の熊野市長は原発について、市議会の判断に委ねるとしたが、市議会は、計画発覚から5ヶ月後、市民からの原発拒否請願を全会一致で採択した[9]

だが、中部電力は計画を諦めず、地元の人々に原発建設のメリットを説き続けるなどしたため、誘致の再検討を求める陳情が増え、当時の有権者の半数(約1万人)に近い署名が寄せられるなどした[9]

1980年、熊野市議会は原発建設について、「調査研究機関の市議会への設置」を採択し、誘致を進める動きを示した[9]。このため、原発反対派は、推進派の市議の自宅に押しかけ、徹夜で説得を試みるなど、運動を力押しで推進しようとした[9]

1986年チェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、この影響で、熊野の原発建設についても、反対派が主流となっていった[9]

1987年、市議選で反対派14人が当選して過半数となり、5回目となる原発の拒否決議をするなどした結果、市総合計画から「原発」の項目が削られ、原発建設はついに頓挫した[9]

2000年、中部電力は芦浜原子力発電所の計画を取り下げた[9]。同社は2014年の朝日新聞の取材に対して、井内浦での原発建設計画について「現在はない」としている[9]
世界遺産登録後

2004年世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」登録[10]

市町村合併により、1957年、北牟婁郡錦町度会郡紀勢町錦(現・大紀町錦)に、2005年日高郡龍神村が田辺市龍神村になった。
地域
北牟婁地域
尾鷲市・北牟婁郡・度会郡大紀町錦
荷坂峠以南、矢ノ川峠以北の地域で、最も北東に位置する。


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