熊野那智大社
拝殿
所在地和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度40分7.4秒 東経135度53分24.6秒 / 北緯33.668722度 東経135.890167度 / 33.668722; 135.890167
熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山にある神社。熊野本宮大社・熊野速玉大社と共に、熊野三山を構成する。熊野夫須美大神を主祭神とする。かつては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていた。また熊野十二所権現や十三所権現、那智山権現ともいう。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部[1]。 『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』によれば孝昭天皇の頃にインドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀ったとされ、また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられるが、創成の詳細は不明。熊野那智大社は熊野三山の中でも熊野坐神社(本宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは異なり、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後である。当初は那智滝の正面にある現・飛瀧神社の地に社殿があった。 一説には、那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地だった那智滝が聖地化し、夫須美神が勧請されて当社が滝本で創建されたともいう。 祭神は熊野夫須美大神であるが事解男命(事解之男神)とする説がある。その熊野夫須美大神は伊邪那美神とされるが、熊野久須毘命とする説もある。[2] 仁徳天皇5年(317年)に社殿が現在地に移転されたとされる。 大同元年(806年)の『新抄格勅符抄』には天平神護2年(766年)熊野速玉男神(新宮の主神)とともに熊野牟須美神の記述があり、それぞれ神封戸が4戸あてられている。しかし、その後は貞観元年(859年)1月27日、同年5月28日、貞観5年(863年)3月2日の速玉神と坐神(本宮の主神)が従五位上に昇階した事に関する『日本三代実録』の記事に牟須美神(ないし夫須美神)の記述がない。延長5年(927年)延喜式神名帳の牟婁郡6座中にも熊野速玉神社、熊野坐神社の二社のみが書かれている。 一方、永観2年(984年)の『三宝絵詞』では熊野両所として速玉神とともに当社主神の夫須美神を取り上げている。本宮・新宮と併せて熊野三山とする記述は永保3年(1083年)9月4日の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が最も早く、これまでには三山共通の三所権現を祀る神社として成立していたと考えられる。また『中右記』の天仁2年(1109年)10月27日条の藤原宗忠らの参拝記録から、この頃までに現在の社地に遷祀されていたとされる。 那智一山の組織は平安時代末期に形成したと考えられるが当時の史料は残されていない。近世後期に編纂された『紀伊続風土記』などによれば、那智山には禰宜や神主などの神職は存在せず、那智山は隣接している如意輪堂(現・青岸渡寺)と神仏習合して一体化し、その全員が社僧という修験者達の霊場となっていた。
歴史
熊野三山の成立まで
那智一山の組織