この項目では、紀伊半島にある参道について説明しています。水森かおりの楽曲については「熊野古道 (水森かおりの曲)」をご覧ください。
熊野古道(くまのこどう)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称。熊野参詣道ともよばれる。紀伊半島に位置し、道は三重県、奈良県、和歌山県、大阪府に跨る。2004年に世界文化遺産に登録。牛馬童子像
概要熊野古道(大阪では熊野街道と言われる)の碑(土佐堀通と御祓筋の交点)
熊野古道とは、主に以下の6つの道を指す。
紀伊路(渡辺津 - 田辺)
小辺路(高野山 - 熊野三山、約70km)
中辺路(田辺 - 熊野三山)
大辺路(田辺 - 串本 - 熊野三山、約120km)
伊勢路(伊勢神宮 - 熊野三山、約160km)
大峯奥駈道 (吉野 - 熊野三山)
大門坂
これらの多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録された。なお、その登録対象には紀伊路は含まれていない。
熊野古道の遺構の特徴として、那智山にある大門坂など舗装に用いられた石畳が残っていることがある。石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だからである。また、江戸時代に紀州藩により整備された一里塚が残っている個所もある。
熊野古道の中には、国道や市街地のルートと重複していて吸収されてしまったものもある[注釈 1]。これには紀伊半島の地理が関係している。すなわち、紀伊半島の中央部は、際立った高山こそないものの、どこまでも続く山々と谷に覆われている。このため、古来より交通開発が困難であり、往来に適する場所は限られている。現在もこの事情は同様であり、結果として、現代の主要な交通路は古人の拓いた道に並行[注釈 2]、あるいは重複することになる。
世界遺産に登録されたものが熊野古道の全てではない。これは、熊野詣それ自体の盛衰もあって正確なルートが不明になっている区間があること、歴史的な変遷から生じた派生ルートがありそのすべてが対象となっていないこと、河川が増水すると迂回を強いられる区間があること、親不知ほどではないにせよ通行が安全ではない海岸の「道」が用いられていたこと等による。なお、そうした「忘れられた」ルートを再発見しようとする地元の動きもある。 熊野古道の特色は、中世期に日本最大の霊場として隆盛した熊野信仰という一貫した目的のために、1000年以上も使われ続けてきたことである[1]。近世になって、日本最大の霊場としての地位を伊勢神宮にとって代わられてからは、西国三十三所観音巡礼のひとつに姿を変えるようになったが、純粋な徒歩参詣道として熊野古道が残ったため、現在でも独自の形で賑わいを見せている[2]。 熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。熊野三山は、天皇から貴族、庶民に至るまであらゆる階層の人々の信仰を集め、皇室で参拝したのは、平安時代中期の延喜7年(908年)に行われた宇多法皇の熊野御幸が最初と言われる[3][4][5]。熊野御幸とは、上皇の熊野詣のことで、弘安4年(1281年)の亀山上皇の熊野御幸まで、その期間は374年間、94回行われた[4]。 11世紀から12世紀にわたり、院政期の上皇方が熊野詣でを繰り返すようになった[5]。熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野御幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野御幸を行った。これにより、上皇や法皇に伴われて皇后などの女院方や貴族が同行するようになり活況を呈し、後に京都の貴族の間で単独で熊野詣が行われるようになった[5]。その後、後白河上皇も33回の熊野御幸を行っている。鎌倉時代の建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家の日記によれば、旅は原則徒歩で移動し、荷物は伝馬で運ばせ、それらによって道が整備されていったという当時の様子について記されている[5]。この時代は、源氏や平氏にも信仰され、平安・鎌倉時代の僧侶であった一遍や文覚も参詣した[3]。源頼朝の妻・北条政子も鎌倉から上洛する機会を利用して、熊野参詣を2回行っている[5]。さらに承久の乱(1221年)以後は、地方武士の参詣者も出るようになった[5]。
歴史