熊野三山本願所
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棟別銭徴収の早い例は、貞治5年(1366年)ごろに播磨国松原荘(石清水八幡社領)などで新宮造営のために徴収された例が見られる[10][15]ほか、『熊野年代記』には三山造営のための「諸国棟別」(応永33年〈1426年〉)、那智造営のための京・和泉河内での徴収(文明10年〈1478年〉)といった例がある[16]。段米・段銭では、14世紀前半に段米が和泉・美濃などで確認され、次いで15世紀前半からは段銭が見られるようになる。国段銭と安房国衙職をもって新宮遷宮に宛てる旨の応永26年(1419年)の室町将軍家御教書を初例とし[10]、永享5年(1433年)には新宮造営料として紀伊国から段銭を徴収するようにとの御教書が発され[17]、紀伊のほか丹波や伊豆に宛て課されていた[16]。これら15世紀前半から中葉にかけての段銭は造営料国に入れ替わるように出現し、造営料国は史料上確認することができなくなる[18]

しかし、こうした棟別や段銭による財源の実効性は室町幕府を頂点とする守護体制の実力に依存していたため、室町幕府の支配が弛緩していく15世紀半ばにはほとんど依拠しえなくなる。この時期にも存続した造営料所として、新宮に属した紀伊国高家荘があるが、15世紀半ば以降、畠山家の内紛に巻き込まれるかたちで繰り返し濫妨に見舞われて[17]、ほとんど不知行であったと見られ、延徳元年(1489年)には、新宮の神官らが紀伊国内の所領が有名無実化したと窮状を幕府に訴えている。以上のように、15世紀初までに造営料国を、15世紀後半までに室町幕府支配を背景とした公的保護を失った熊野三山は、以後の造営・修造のための財源をほかに求めなければならなくなったのである[16]
熊野三山本願所の成立
熊野三山本願所

ここまで見てきた熊野三山を含めて、古代から中世前半にかけての寺社の造営は、寺社領経営のような恒常的財源、幕府や朝廷などからの一時的な造営料所の寄進、あるいは公権力からの臨時の保護によって行われるものであった。しかし、鎌倉時代初期の東大寺造営に功績のあった重源のように、臨時かつ応急の処置とはいえ、財源の調達から造営・修造の実施に至る一切を、勧進聖が全面的請負事業として掌握する例が見られた[19]。さらに、戦乱のような社会的混乱によってこうした公権力からの財源が機能し得なくなるにつれ、本来は寺社の外部の存在である勧進聖の請負による勧進活動を恒常的な形で寺社内に組み込もうとする寺社の要請[20]、あるいは守護大名戦国大名といった在地勢力の権力や権威を前提として[21]、勧進聖たちが造営・修造の実績と勧進を通じて獲得した既得権とに基づいて成立させた組織が本願所で、15世紀末から各地の寺社に見られるようになる[22]。しかし、寺院内に確たる地歩を築くことを目指した本願と、本願に正式な構成員としての地位を認めようとせず、経済的な役割のみに押しとどめようとした寺社との間には緊張関係があり、近世の幕藩体制下での寺社財政の再建と安定が進むにつれ、寺社の側からの圧迫にさらされて衰退・廃絶する本願所も少なくなかった[23]

熊野三山もまたそうした例に漏れず、15世紀後半以降に勧進聖の活動に財源が求められ始め、15世紀末以降に本願所が成立する。熊野三山本願所は各地の本願所の中でもとりわけ規模が大きく[24]、三山のそれぞれに独立した本願所があった。熊野の本願所には庵主(あんじゅ)という独自の呼び方があった。新宮庵主は霊光庵の名でも知られ、末社神倉社にはさらに独自の本願があり、神倉本願と呼ばれた。また、那智庵主は7か寺もの大規模な本願所からなり、穀屋(こくや)と総称された。

前述のように造営料国や棟別・段銭といった公権力を背景とした財源が15世紀後半以降に失われていくにつれ、以下に詳述するように、入れ替わるように勧進活動が現われて活発化し、その帰結として15世紀末以降に新宮や那智で本願所が組織されていく[25]。こうした過程は、各地の寺社本願所と異なるものではなく、熊野三山本願所も共通の性格を備えていたと言えるだろう[26]。また、同じ本願所とはいえ、新宮は飯道寺梅本院という当山方大先達寺院から庵主を迎える、天台宗比叡山末寺に連なるといった権威を背景として発展したのに対し、那智は西国三十三所巡礼の参詣霊場として、貴庶の勧進と参詣者の散銭を募ることに活動の軸を置き、その性格は一様ではなかった[27]
新宮「妙心寺 (新宮市)」および「神倉神社」も参照

新宮の本願所の開創を伝える史料の中には、15世紀よりも前の時期、早いものでは8世紀初めに萌芽を求めるもの(『熊野年代記[28]など)もあるが、そうした史料は総じて信頼性を欠き、偽作の可能性も指摘されている[29]。新宮庵主の活動年代を確認しうる信頼できる史料は、新宮造営のための勧進に赴く十穀聖覚賢なる人物に対する援助を管領細川勝元が依頼する趣意が記された文書で、15世紀前半と推定されるものである[30]。この文書における十穀聖覚賢の勧進事業がひとつの画期となって、15世紀後半からは、熊野三山の勧進による造営の事例が大幅に増え始める。それだけでなく、この時期以降の新宮の本願に関する記述は、それ以前に比べてはるかに具体性に富んだものとなっていく[31]だけでなく、庵主が社頭修造を本願たる自己の職分として意識し、活動する様子が伝わってくる[32]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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