仙台藩主伊達宗村の機転を利かせた助言で、既に死んでいた宗孝はまだ息があったことにして細川屋敷にこっそり運び出され、翌日死亡したことにされた。弟の重賢が急遽藩主の座に就いた。浅野家と絶縁状態にある恩人の伊達家に配慮し[注釈 2]、赤穂義士の遺構は破壊されている[注釈 3]。同じく伝承されてきた刀剣や衣類などの義士遺品も処分された[注釈 4]。重賢は堀勝名を大奉行に抜擢して倹約と支出削減を推進、宝暦5年(1755年)には藩校時習館を開き、行政と司法を分離して刑法を改正(律令法参照)、藩の機構を整備するなどの宝暦の改革を行い、中興の祖となった。
幕末には藩論が勤王党、時習館党、実学党の3派に分かれた。実学党の中心は横井小楠である。小楠は藩政改革に携わったが失脚、安政5年(1858年)に福井藩主松平慶永の誘いにより政治顧問として福井藩に移った。小楠は、文久2年(1862年)に江戸留守居役らと酒宴中に刺客に襲われ一人逃亡したという罪で、翌年に熊本藩士の籍を剥奪されている。
安政7年(1860年)、桜田門外の変では大関和七郎ら4名は、熊本藩邸の8代斉護へ趣意書を提出し自訴した。熊本藩は安政の大獄では誰も罰されてない上に、細川家でも江戸城で宗孝が襲撃により落命しているため[注釈 5]、趣意が取り上げられる事はなかった。間を置かず全員が他家に預け替えられている[9]。
元治元年(1864年)の池田屋事件で、勤王党の中心人物宮部鼎蔵が死亡した。これにより時習館党が主流となったが、藩論は不統一のままだった。戊辰戦争では、薩長主導の明治新政府に加わり、江戸無血開城後は、上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦した。 明治3年(1870年)、知藩事となり華族に列した最後の藩主・護久は、実学党を藩政の中心に据えた。護久は熊本城の解体を新政府に願い出て許可された。しかし、解体を惜しむ声があり解体の方針は凍結されることになった。翌明治4年(1871年)、廃藩置県により熊本県となった。明治17年(1884年)、細川家は侯爵に叙爵された。 昭和58年(1983年)には、細川家第18代当主細川護煕(後の第79代内閣総理大臣)が熊本県知事に就任している。政界引退して現在は陶芸家。 外様 52万石 (1600年 - 1632年)
明治以降
藩邸
細川氏入部以後の江戸藩邸(上屋敷)は、江戸城近くの大名小路に上屋敷があり、江戸期を通じて動いていない(ただし、江戸城の拡張に伴い面積の減少はある)。
伊皿子台(いさらごだい 現在の港区高輪及び白金)に中屋敷[10](下屋敷と記載の資料もあり[11])があった。「細川家文書」では当初は下屋敷であったが、江戸の後期には中屋敷となっているようである。
下屋敷は日本橋にあったが、三田の済海寺(智福寺)付近に移された(現在の三田三丁目。前に「元和キリシタン殉教の地」の碑がある)。
京都藩邸は知恩院古門前西町に、大阪藩邸は中ノ島常安町に、伏見藩邸は土橋町に、長崎藩邸は大黒町にあった。
江戸および熊本での菩提寺
江戸での菩提寺は品川大徳寺派の寺院、東海寺の内にあった妙解院であった。熊本新田藩も妙解院を菩提寺としていた一方、宇土藩は同じく東海寺内の清光院を菩提寺としていた。
熊本での菩提寺は妙解寺と泰勝寺。両寺は「熊本藩主細川家墓所」の名称で史跡に指定されている[12]。2023年(令和5年)2月2日、同史跡の細川家墓に、何者かが液体をかけたような跡が見つかった。熊本市は県警に被害届を提出。水で除去できないことから、人為的に汚された可能性が高いとみている[13]。
歴代藩主
加藤家