熊倉一雄
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1952年[13]、劇団東芸の研究生として入団[2][6][7][13][12]。東芸の先輩には大塚周夫がいる[7]。その時は公演が始まっても、大道具、照明の係で、裏方として働かされることが多かったという[7]。その後は俳優活動をしていたが、先輩の東宝映画出演が決まって、熊倉にも戦争もので、戦況を伝える伝令役で転がり込んで、配役表に熊倉の名前が印刷された台本を渡され、ロケ地の伊豆大島で、緊張しながらリハーサルをしていた[7][11]。本番では極度に興奮し、身体がワナワナと震えていくのを感じ、頭の中が空っぽになって台詞が全く出てこなかったという[7]。カメラだけがジーッと音を立てて回り続けて、監督の厳しい声が響き、その後も何回か撮影し直しが続いていたが、いずれも絶句したり台詞を間違えたりしており、監督もサジを投げて、急遽代役が立てられることになったという[7]。その時に「俺はバカだ!こんなバカがどうして役者になんかなろうとしたんだ!!」「役者では芽が出ない」と思うようになり、俳優活動を休止する[7][11]

1953年開局間もない日本テレビに入社[7][11]。スタジオ班に配属され[6]、主にテレビドラマの大道具を担当[7][14]。当時は放映されるドラマの数が少なく、セットが完成すると次のドラマの準備まで時間が空くため、その合間に「バーテンダーの役をやってみろ」、「婆さんの役をやってみろ」と言われ、通行人等の端役でドラマにも出演していた[7][14]。このドラマ出演をきっかけに再び俳優業に興味を持つようになり、日本テレビを退社し、劇団東芸に戻り、俳優活動を再開する[7][11]

1956年9月、テアトル・エコー[15]へ入団[6]。翌1957年にアルバイトで海外ドラマ『海賊船サルタナ』のアテレコの仕事に出演して声優としての活動を始める[7][9]。同年に日本テレビで放映された『ヒッチコック劇場』で、元社員であった縁でキャスティングプロデューサーとして声優のキャスティングを担当[11]アルフレッド・ヒッチコックは放映開始当時、スーパーインポーズで吹き替えはなし)。担当ディレクターに、ヒッチコックの吹き替えに適当な役者がいないと相談したところ、熊倉本人に吹き替えを担当するように指示[11]。これが熊倉の声優としての最初の成功作となる。以後数々の作品に声優として出演する。アニメでのデビューは『ポパイ』のブルート役[7]。プレーヤーズセンターに所属していた時期もある[2]

1968年には『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌を歌い、キングレコードのヒット賞を受賞[11]

ディズニーの長編アニメの吹き替えも複数担当していた。

テアトル・エコーでは演出家を兼ねて指導的立場となり、1969年には『ひょっこりひょうたん島』『ブンとフン』などテレビ・ラジオでの協業が多かった放送作家・井上ひさしにデビュー戯曲(実際はこれ以前に雑誌掲載のみの習作もある)『日本人のへそ』の執筆を依嘱。ブレヒト風の歌入り芝居に風刺と推理劇を盛りこみ、二重三重の劇中劇が入り組む前代未聞の作となり、主演と演出を兼ねての公演はセンセーショナルな成功を収める。以後、作・井上ひさし、演出・熊倉一雄のコンビは数年にわたって話題作を連打し日本の演劇界の話題を集め続けた。1977年には『日本人のへそ』映画版にも出演したが、ハナ肇とともに原作にない劇中劇の照明係(そのため出番が少ない)という扱いでのゲスト出演であり、熊倉が初演等の舞台で演じた役はなべおさみに譲られた。井上が大劇場へ転じてからはニール・サイモンなど翻訳喜劇を多く取り上げている。1991年紫綬褒章受章、1998年勲四等旭日小綬章受章、1998年紀伊国屋演劇賞個人賞受賞、2015年NHK放送文化賞受賞[16]

2015年10月12日午後3時24分、直腸癌のため都内の病院で死去[5]


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