熊倉一雄
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母方の祖父はの会社の技師長[3]青山で1年ほど暮らして、5歳の時、一家は下町、東京府東京市京橋区入船町(現:東京都中央区入船[注釈 1]に越して父の両親と同居[3]。この町で小学校時代を送っていたが、元々虚弱体質であり、小学2年生の時に肋膜炎を罹り3ヶ月ほど自宅療養し、本ばかり読んでいた[3][4][7][9]。将来は発明家になりたいと考えており、エジソンが好きだった[3][7]。旧制東京府立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)に進学する頃に父が米国企業に転職し、家計は楽になり、一家は再び山の手の東京府東京市大森区大森(現:東京都大田区大森)に転居[3]。中学5年生の時、 旧制第二高等学校(現・東北大学)を受験するも失敗し、慶應義塾大学経済学部予科に進学[3][7]1944年、授業など殆どなく、栃木県へ援農(勤労動員)に行ったり、東京都品川区大崎の工場でボールベアリングを作ったり、三交代制で飛行機を作らされる毎日に嫌気が差して秋に中退[3][7]。翌年4月、外交官を志して旧制都立高等学校文科(後の東京都立大学 (1949-2011)、現在の首都大学東京)を受験し、進学[3][7]。終戦後、「一体これからどうしていけばいいのか」と、見当がつかなくなり、父も仕事から外れ、しばらくはボンヤリして晴耕雨読のような毎日を送って1年休学[3]。復学をする時に「もっと現実的な職業を考えなきゃ」と考えた際、15歳で虫垂炎の手術をしていた時の医者が素晴らしい人物であったことを思い出し、医者というのは「いい仕事だな」と思っていたという[3]。「医者になろう。少なくとも社会に貢献できる仕事だ」と同高等学校理科[注釈 2](後の東京都立大学 (1949-2011)理学部、現在の首都大学東京都市教養学部理工学系)に編入[3][11][12]。編入後、友人に誘われるまま理科演劇研究会に入部し、同高等学校在学中、記念祭で催した芝居のゴーゴリ『検察官』をきっかけに演劇に興味を持ち始める[7][9][12]。翌年の記念祭では太宰治作『カチカチ山』のタヌキ役を演じて演技賞までもらってしまったという[3][11]。同校卒業後の、1949年に劇団感覚座を設立[6][12]。しかし多額の負債を抱え込み1年で解散[11]

1950年東京演技アカデミー楽劇科に入学し[6][12]、将来のミュージカルスターを夢見て、ミュージカルを中心に学ぶが、学校が1年後に倒産[7]。目標を失い、その上帰る家も失い、途方に暮れて、仕方なくアルバイトを続け、その日その日の生計を立てることになったという[7]。戦後も間もない頃のことでそうそう働けるところはなかったが、生来の手先の器用さを利用して、筆耕、看板書きの仕事を見つけては働いていたという[7]。何も仕事のない時には病院に行って、売血をしてその日の糧を得ていた[7]。そんなどん底生活をしていた時、「いい若いモンが己の血を売って生きていくなんていいことじゃない、うちへ飯を食いにこい」と優しい言葉をかけてくれた医師がおり、その先生の家に2年間も居侯させてもらっていた[7]


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