熊倉一雄
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中学5年生の時、 旧制第二高等学校(現・東北大学)を受験するも失敗し、慶應義塾大学経済学部予科に進学[3][7]1944年、授業など殆どなく、栃木県へ援農(勤労動員)に行ったり、東京都品川区大崎の工場でボールベアリングを作ったり、三交代制で飛行機を作らされる毎日に嫌気が差して秋に中退[3][7]。翌年4月、外交官を志して旧制都立高等学校文科(後の東京都立大学 (1949-2011)、現在の首都大学東京)を受験し、進学[3][7]。終戦後、「一体これからどうしていけばいいのか」と、見当がつかなくなり、父も仕事から外れ、しばらくはボンヤリして晴耕雨読のような毎日を送って1年休学[3]。復学をする時に「もっと現実的な職業を考えなきゃ」と考えた際、15歳で虫垂炎の手術をしていた時の医者が素晴らしい人物であったことを思い出し、医者というのは「いい仕事だな」と思っていたという[3]。「医者になろう。少なくとも社会に貢献できる仕事だ」と同高等学校理科[注釈 2](後の東京都立大学 (1949-2011)理学部、現在の首都大学東京都市教養学部理工学系)に編入[3][11][12]。編入後、友人に誘われるまま理科演劇研究会に入部し、同高等学校在学中、記念祭で催した芝居のゴーゴリ『検察官』をきっかけに演劇に興味を持ち始める[7][9][12]。翌年の記念祭では太宰治作『カチカチ山』のタヌキ役を演じて演技賞までもらってしまったという[3][11]。同校卒業後の、1949年に劇団感覚座を設立[6][12]。しかし多額の負債を抱え込み1年で解散[11]

1950年東京演技アカデミー楽劇科に入学し[6][12]、将来のミュージカルスターを夢見て、ミュージカルを中心に学ぶが、学校が1年後に倒産[7]。目標を失い、その上帰る家も失い、途方に暮れて、仕方なくアルバイトを続け、その日その日の生計を立てることになったという[7]。戦後も間もない頃のことでそうそう働けるところはなかったが、生来の手先の器用さを利用して、筆耕、看板書きの仕事を見つけては働いていたという[7]。何も仕事のない時には病院に行って、売血をしてその日の糧を得ていた[7]。そんなどん底生活をしていた時、「いい若いモンが己の血を売って生きていくなんていいことじゃない、うちへ飯を食いにこい」と優しい言葉をかけてくれた医師がおり、その先生の家に2年間も居侯させてもらっていた[7]。ある時、進駐軍(アメリカ駐留軍)回りのダンシングチームで、コミックショーをやる男優を何人か探しているという耳よりな情報が仲間からもたらされ、仲間とトリオを組んでショーでパントマイムをやらせてもらうことにして、日本語を喋ってもシャレが通じないと考えたコミックマイムは、大いに受けたという[7]アメリカ合衆国のヒットナンバーを歌って、柳沢真一とも舞台を共にしていた[7]。ある時、柳沢のマネージャーから、「楽譜が読めるなら写譜を手伝ってくれないか」と頼まれ、即座に書き上げてマネージャーを驚かせる[7]。その話はすぐに広がり、帝国劇場日本劇場から写譜の仕事が転がり込んでくるようになったという[7]。舞台が開くぎりぎり2、3日前に、どんどん山のように譜面が渡されるのだったことから、猛スピードで仕上げていかなければならず、いつも徹夜で写譜することになった[7]。同時に収入はぐんとはね上がり、貯金もでき、念願のミュージカルタレントになるための軍資金を得ることができたという[7]。その頃、ルネ・クレールのフランス映画『自由を我等に』を見て感銘を受けて、歌える役者を目指して、歩み続ける決意を新たにしていた[7]。1952年[13]、劇団東芸の研究生として入団[2][6][7][13][12]。東芸の先輩には大塚周夫がいる[7]。その時は公演が始まっても、大道具、照明の係で、裏方として働かされることが多かったという[7]。その後は俳優活動をしていたが、先輩の東宝映画出演が決まって、熊倉にも戦争もので、戦況を伝える伝令役で転がり込んで、配役表に熊倉の名前が印刷された台本を渡され、ロケ地の伊豆大島で、緊張しながらリハーサルをしていた[7][11]。本番では極度に興奮し、身体がワナワナと震えていくのを感じ、頭の中が空っぽになって台詞が全く出てこなかったという[7]。カメラだけがジーッと音を立てて回り続けて、監督の厳しい声が響き、その後も何回か撮影し直しが続いていたが、いずれも絶句したり台詞を間違えたりしており、監督もサジを投げて、急遽代役が立てられることになったという[7]。その時に「俺はバカだ!こんなバカがどうして役者になんかなろうとしたんだ!!」「役者では芽が出ない」と思うようになり、俳優活動を休止する[7][11]

1953年開局間もない日本テレビに入社[7][11]。スタジオ班に配属され[6]、主にテレビドラマの大道具を担当[7][14]。当時は放映されるドラマの数が少なく、セットが完成すると次のドラマの準備まで時間が空くため、その合間に「バーテンダーの役をやってみろ」、「婆さんの役をやってみろ」と言われ、通行人等の端役でドラマにも出演していた[7][14]。このドラマ出演をきっかけに再び俳優業に興味を持つようになり、日本テレビを退社し、劇団東芸に戻り、俳優活動を再開する[7][11]


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