焼肉
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本項後半で解説する東洋料理の「焼肉」の他、ローストビーフローストポーク焼き鳥ステーキジンギスカン鍋バーベキューなどが挙げられる。
日本の焼肉文化「日本の獣肉食の歴史」も参照

日本においても古くから獣肉食の歴史がある。一方で食用にする鳥獣の屠畜方法や肉の流通形態、下処理や調味・調理方法、使用する民具などによりそれぞれの文化や風俗の差異が確認できることはあるが、これらについても文献から明確な起源が判明していることは多くない。

最も一般的な説では江戸時代ももんじ屋などでひっそり続いていた食肉文化があり、これは鹿など各地方や食文化により多種多様な様態をもっていた。

彦根藩では第3代藩主井伊直澄の頃、反本丸(へいほんがん)と称して全国で唯一牛肉の味噌漬けが作られており、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで江戸幕府や他藩から要求が絶えなかったという。これは近江牛が名産となるはしりとなった[18]。近江牛は開港期には東海道を徒歩で、のち汽船を使用し東京・横浜まで出荷されるようになる[19]

「焼肉」の風習は明治以前から既に存在しており、たとえば幕末開港期の横浜では、牛肉を串に刺して焼いたものを売り歩き客に食わせる料理があったとされる[20]

幕末の開国期には日本各地の開港場で日本国外の人向けとして食肉処理(屠蓄業)が始められ、当初は英国人米国人国人などが経営を行った。たとえば神戸では英国人キルビーにより最初の屠畜場が設けられて以降、9名の外国人により7箇所の屠畜場が設置された。彼らの屠畜方法は「神戸肉仕立て」といい、後の神戸肉ブランドを支える屠畜方法に大きな影響を与えたと言われる。

本郷浩二によれば、神戸における屠畜業は当初から外国人が大きく関与しており、近世期の伝統的な生牛の屠畜技術との連続性は相対的に希薄であるとする。日本人の屠畜は神戸の場合、宇治野村風呂ヶ谷の「穢多」が動員されたという記録がある。これは死牛馬勝手処理令や解放令以前の段階において、生牛の屠畜も穢多の役分としての延長に解釈されたことを推測させるものである。1870年(明治3年)には食肉需要が拡大するなかで商社の宇治野組は屠畜場を経営するに至ったとされる[21]。開花期の牛肉食は学生や一部の都市民が興味本位で口にするようなメニューであり、農村部や庶民にとっては忌避感を伴うものであった。これら一般大衆に牛肉食を普及させたのは何事にも西欧式を採用した軍隊であり、徴兵制度であった[22]日清戦争日露戦争期を通じて牛肉の消費は急激に拡大し、8歳頃まで成長した農耕牛を肥育に回して食肉用途として出荷する形態が定着した。

神戸の場合では被差別部落民とされた食肉加工事業者は明治期には既に裕福で、蔵や処理施設などを構える屋敷町を形成しており、周辺には港湾労働者らの貧民街が形成されており、その一部が食肉処理事業に従事していたという[23]。内臓などのいわゆるホルモンは枝肉(精肉)より鮮度の劣化が激しく、常温下で2?3日も経てば腐敗が進み、悪臭で食べられたものではなくなる。冷凍流通の存在しない当時としては肥料にでもするしか利用価値の無いものであったが、当日落としたような内臓部位については食肉加工場の周辺で売られ食材用として流通していた。精肉と内臓部位の流通経路は当初から明確に異なっており、江戸時代からの慣習[注 2]で内臓などは屠畜作業者の取分とされ[24]、これらを港湾労働者らに販売した売却益は屠畜作業者の重要な副収入となっていた。

朝鮮人労働者が屠場から牛や豚の内臓等を譲り受けて[24]食べていたことが朝鮮料理の日本での普及と関連してしばしば語られ、東京においても品川の屠場と朝鮮人の焼肉料理との関連を示唆する証言がある。芝浦の朝鮮人集住地を舞台とする村山知義の小説『或るコロニーの記録』には豚のを煮て塩で食べる朝鮮人の描写がある。東京においても朝鮮人と被差別部落民は近隣住民や同じ職場の労働者として、あるいは雇用者と被雇用者として関係を結んでいた[25]。これらのエピソードは屠畜業者と労働者である在日朝鮮人および被差別部落民との間に、牛や豚の内臓食を通して経済関係が生まれ、そのことが日本の焼肉料理にしばしば内臓食が含まれているという影響を与えた可能性を証言するものである。ただし筆者の外村大は、日本の朝鮮料理や朝鮮式焼肉料理の起源はこれだけに求めるべきではないとコメントしている[25]

そして第二次世界大戦後の深刻な食糧難の際に在日朝鮮人が料理屋として内臓類を調理して販売したところ瞬く間に好評を得て、安価な食材で店を繁盛させる事が出来る事に気付いた在日朝鮮人により「朝鮮料理」として全国的に店舗を拡大させた。しかし後に朝鮮戦争が勃発し、在日朝鮮人の中で韓国を支持して「韓国料理」に名を替える者と、北朝鮮を支持して朝鮮料理を主張する者の二派に分かれたが、主な客である日本人には理解されず、日本人にも理解し易い様、肉を焼くという意味で「焼肉」に統一され、これが戦後の日本で一般的に知られる焼肉のルーツと言われている[26]

日本人の食肉の供給量(消費量)は、かつて牛肉どころかそれに豚肉・鶏肉をあわせてもとても少なく、1960年時点で、1人1年当たり牛肉・豚肉・鶏肉をあわせた供給量でもわずかに3.5kgだったが、2013年はその10倍の30kgとなった[27]

牛肉消費形態については、1960年代半ばから、伝統的な形態以外の調理法による各種の牛肉料理が急速に広まり、その主要なものは「濃いタレ」をつけて焼く「焼肉」、ハンバーグなど各種挽き肉料理、カレーシチューなど煮込み料理であり、その背景には1960年代以降のグラスフェッド(草牧肥育)ビーフの輸入の増加や乳用種去勢牛の若齢肥育の本格化などによる肉質多様化をともなった牛肉消費の増大があった[28]

日本の牛肉輸入自由化が1991年(平成3年)4月に施行される[29]。その頃から焼肉チェーンが多数参入、2003年にはBSEによる日本国民の牛肉離れが起きた。

ちなみに「ホルモン料理」という料理名そのものは大阪西心斎橋の「北極星」北橋茂男により昭和15年に商標登録され提供されているが、これはフランス料理を元とした煮込み料理であり創作料理であった。また、明治時代における朝鮮料理店は、東京などに高級店として数店が営業している程度であり、提供する料理は韓定食などの正統派宮廷料理であり現代のいわゆる焼肉料理店のようなものではなかった。

「焼肉店」は、既に1960年代に大都市圏に存在していたが、1970年(昭和45年)以降は次第に日本各地へ広まるようになった。1968年(昭和43年)にはエバラ焼肉のたれが発売された。2004年(平成16年)の統計では20997件[30]である。
東洋料理としての「焼肉」

本節では日本の「焼肉店」と称する店舗において提供されるような、肉を焼網などで炙って食べる料理について解説する。

一般的には、焼いた肉をたれ醤油を基本に砂糖果物ニンニクゴマなどを調合して作ったジンギスカンのタレを元にした配合調味料)や胡椒もしくはレモン汁などに付けて食する。同時に野菜も調理する場合もあるが、それらを含めて「焼肉」と呼ぶ。

材料には牛肉がよく用いられるが、焼肉店では豚肉、鶏肉などの獣肉、ウィンナーソーセージ魚介類、野菜、杏仁豆腐やフルーツカットなどのデザートも提供されている。また店舗によってはキムチクッパビビンバ、朝鮮式冷麺など朝鮮の食文化を象徴するサイドメニューも豊富に提供されている。

焼き網で肉や野菜を焼いている様子

オガ炭

無煙ロースター

中落ち塩タン

山形牛

伊賀牛

宮崎牛
ホルモン焼き」も参照

佐々木道雄は、現代の日本における「焼肉料理」「焼肉料理店」は朝鮮と密接に関連していると述べている[31]。1930年代中頃、朝鮮南部から大阪の猪飼野に移住した朝鮮人によってカルビ焼きプルコギが伝わり、これらが当時、既に存在していた朝鮮食堂に取り込まれて焼肉食堂に変容する[31]。そして、プルコギとカルビ焼きは当時流行していたジンギスカンの影響により、「客自ら焼いて食べる」形式を得る[31]


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