1770年代、リチャード・ロヴェル・エッジワース(英語版)が原始的な無限軌道を設計した。1830年代にはポーランドの数学者で発明家のハーネー=ウロンスキーが同様のアイデアを思いついている[3]。イギリスの博学者ジョージ・ケイリー卿は無限軌道の特許を取得し、それを「万能鉄道 (universal railway)」と呼んだ[注 1]。1837年、ロシアの発明家 Dmitry Zagryazhsky は「移動式軌道つき車両」を設計して同年に特許を取得したが、資金がないために実働するプロトタイプを製作できず1839年に特許を取り消した。一種の無限軌道を使った蒸気機関トラクターが1850年代のクリミア戦争で西側勢力に使われていたという報告もある。1846年、イギリスの技術者ジェームス・ボイデル[注 2]が無限軌道 (endless railway wheel) の特許を取得した。
実用的な無限軌道の車両であるロンバード蒸気式木材牽引車(英語版)を発明し製作したのはアルヴィン・ロンバード(英語版)で、1901年に特許を取得した。彼は同年、メイン州ウォータービルで蒸気機関を動力にした木材牽引車を製作した。1917年までに83台を製作し、その後内燃機関に切り替え、1934年にはフェアバンクス・モース製ディーゼルエンジンを採用した。装軌車両の商業化という意味ではアルヴィン・ロンバードが疑いもなく世界初である。ロンバードの蒸気機関車は、現在も実働するものが少なくとも1台存在する[4]。ガソリンで駆動するものがオーガスタのメイン州立博物館に展示されている。
さらに、ロンバードからライセンス供与を受けてフェニックス・センチピード(英語版)が製作したものが倍以上あり、こちらはシリンダーを垂直に配置していた。1903年、ホルト・マニュファクチャリング・カンパニー(英語版)(以下ホルト社)の創業者であるベンジャミン・ホルト(英語版)はロンバードに6万ドルを支払い、ロンバードの特許を使った車両製作権を得た。ロンバードがカリフォルニアに移住した後もなんらかの合意があったと見られるが、この権利関係がどう決着したのかは定かではなく、それぞれの記録に若干の食い違いもある。
日本では、富山出身の高松梅治が19世紀末頃に無限軌道を考案し、明治44年(1911年)に欧米8か国に特許申請し、国内では農商務省の特許を取得した[5][6][7][8]。
同じ頃、イギリスのリンカンシャーにあった農機具会社のリチャード・ホーンズビー・アンド・ソン(英語版)社は、1905年装軌車両の特許を取得し開発を行っていた。発明者は同社のデビッド・ロバーツ[9]である。その設計はそれまでのものとは違い地面に接地したソリや車輪で操舵する代わりに、履帯をロックして操舵するようになっていた。ホーンズビーの装軌車両は1905年から1910年にかけて、砲兵トラクターとすべくイギリス陸軍が試験的に用いたが、正式採用されなかった。特許はホルトが買い取った。ホーンズビーの装軌車両は履帯の操作方式が現代の装軌車両と基本的に同じスキッドステアであり、その動作する様を見たイギリス軍兵士が毛虫 (caterpillar) のようだと皮肉った。後にホルトは抜け目なく「キャタピラー」を商標とした。
合併と名称変更を経てホルト社は1925年にキャタピラー社となった。キャタピラー社製装軌車両は建設用車両や陸戦用車両に革命を起こし、戦闘用車両として使われるうちに無限軌道の改良が進んだ。第一次世界大戦時、イギリス軍やオーストリア・ハンガリー軍がホルトの装軌車両を重砲の牽引用に使い、いくつかの国では戦車の開発が活発化した。イギリスが開発した世界初の戦車であるマーク I 戦車はホルトの装軌車両に着想を得てはいるが、一から設計されていた。しかし、そのすぐ後にフランスやドイツで開発された戦車はホルトの装軌車両を改造したものだった。
舗装路への影響マルダー歩兵戦闘車の履帯。
踏面に黒く見える部分がゴムパッド。
ゴムクローラでは問題とはならないが、従来型の鉄クローラで舗装路を走ると、舗装を傷める恐れがある。また平滑な路面ではクローラー踏面との摩擦力が下がるため、高い速度での走行中に舵を切るといった場合にスリップする恐れもある。加えて走るのに必要なエネルギーが大きく、舗装路上では装輪車両に比べると著しく燃費が悪い。さらに公道を走るにあたってはクローラで走ること自体が規制に抵触する[注 3]、コストや仕様上の理由でナンバーを取得していない、といった場合もあり、建設機械が移動する際は、単車のトラック又は低床式トレーラー型の重機キャリアに載せて運ぶことになる。
戦車をはじめとする装軌式の装甲戦闘車両も、戦車運搬車に搭載して移送することが多い。