ジャーナリストのゲイリー・ウルフが2006年に提唱した新無神論(New Atheism)は、21世紀の無神論者たちの立場を表す[28][29]。現代の無神論ではあらゆる宗教は容認されるべきではなく、政府や教育、政治など、過度な影響力を持つところでは、合理的な議論によって反論、批判、挑戦されるべきだと主張する思想家や作家たちによって進められている[2][3]。
また無神論は、次の観点から分類されることもある。
神の存在についての考察や議論を避ける消極的無神論
神の不在を明言する積極的無神論
無神論の明確な対義語は有神論である。理神論や汎神論は、無神論と対義的に扱われることもあるし、消極的無神論の一部とみなされることもある。消極的無神論と不可知論は、時に見分けがつかないか重複する。積極的無神論者は常に宗教を批判するわけではない。したがって、反宗教主義と積極的無神論は区別されなければならない。宗教批判を行う強い無神論者は、しばしば「戦闘的無神論者」と呼ばれる。この語は信仰を持つ人を愚かであるとみなすような、節度を越えた宗教批判へ非難の意味を込めて用いられることもある。 無神論は一般的には既存宗教と対立するとみなされる考え方であり、両者の間にはあつれきが生じることも多い。しかし、近年では科学の発展や浸透に伴って唯物論的な考え方が一般に受け入れられてきており、無神論に対する風当たりは弱まってきているとされる。一方で、近年でも保守的な地域では無神論に対する根強い不信感があり、アメリカ合衆国で台頭したインテリジェント・デザイン論のように、科学と宗教の融合ないし折衷を称しつつも実質的には造物主の存在を前提にした運動も見られる。また無神論者の側も極端な者は宗教を敵視することがある。「社会主義」を自称する全体主義国における宗教の弾圧や虐殺などが無神論と結び付けられることも多い[要出典]。 キリスト教の教義では神は、人間の「生前の行動が、最後の審判(死後の裁き)での判断基準となる」としている(解釈されている)が、全知全能たる神が、どの人間が正しい行動をとり、どの人間が正しくない行動をとるかを前もってわからないわけがないはずであり、このような「全知全能たる神」の存在に関しての解釈(または説、説明)について、矛盾を指摘する言説が無神論では好まれる(全能の逆説、予定説を参照)。 フォイエルバッハやジークムント・フロイトのように神を人間の発明とする考え方は、仏教に通じるとされる[30]。ショーペンハウアーは仏教を「完璧」と言ったことがあり、エンゲルスも部分的ではあるが仏教の空を評価した[31]。しかし、仏教においてはキリスト教的な意味における「全知全能たる神」の存在を「考えていない」だけに過ぎないとする見方がある[要出典]。仏教では、そのような問題を無意味な議論として忌む傾向が強い。このような考え方はむしろ不可知論に近いとされるが、不可知論は「存在の可能性」を想定した上で、その「不可知」を論じている点など、根本的な違いがある(詳しくは、諸法無我、ブッダ(仏)と神等を参照)。また、仏教自体が宗教ではなく衛生学であると(好意的に)解釈したニーチェのように、仏教を宗教とはみなさない者もいる。 神について「敬して遠ざける」としている儒教についても、無神論とみなされる場合がある。事実、儒学者の中には無神論を積極的に唱える者もおり、「宗教として扱われる思想ではない」という見解が多い。 より中立的な定義として、神またはその他の名を持つ、人間を超えた超自然的な存在を考えない立場のことを無神論とするという意見もある。この場合、既存の宗教はほぼすべて有神論に分類され、純粋な唯物論や機械論が無神論となる。 共産主義国家、マルクス・レーニン主義政権国家の多くでは、宗教は国是としては否定されたが、東欧諸国におけるキリスト教のように容認される場合もあった(ドイツ民主共和国#宗教などを参照)。ただしアルバニア人民共和国は「世界初の無神国家」を標榜[32] した。マルクス・レーニン主義無神論 一般的な語源は古代ギリシャの「atheos」「asebs」「atheots」である。古代ギリシアの民族や国家(ポリス、ギリシアの都市国家)においてその守護神を信じない「ある人々」(例:アテナイで女神アテナを信じない人たち)を示した。 キケロがラテン語で翻訳したことから、ラテン語を語源とする説もある。
批判や議論
語源