作品は第19回ヴェネツィア国際映画祭に出品され、1958年(昭和33年)9月7日[4]の授賞式で金獅子賞を獲得した。授賞式に羽織袴の正装で出席した稲垣は、感激のあまり日本に「トリマシタナキマシタ」と電報を打った[4][5]。映画祭には、本作と共に木下惠介監督の『楢山節考』と、増村保造監督の『巨人と玩具』が出品され、『楢山節考』とはトップ争いの形となったが、本作の方が圧倒的な支持を得て金獅子賞獲得となった[4]。しかし、稲垣があとで話を聞くと、「大賞はきっと『楢山節考』だろう」と予測して、通信社の自動車は松竹のある大船のほうをむいて待機していたという。稲垣は「こっちがもらってわるいことをした」と照れている[5]。稲垣によると、外地にいると「東宝」だの「松竹」だのといった意識はなくなってしまい、日本の映画の受賞を願う気持ちでいっぱいになるそうで、「だから私の作品でなかったとしても、私の日本に打った電文は『トリマシタナキマシタ』であったろう」と、この現地での授賞式を振り返っている[5]。
また、稲垣は「(受賞時は)グランプリを貰った時より、お祝いに来ていたルネ・クレールに祝福された方が嬉しかった」と、語っている[6]。
稲垣の著書『日本映画の若き日々』では、「私としてはリバイバルした『無法松』がヴェネツィアで大賞を受賞できて、思い出が残った」、「『無法松』を戦後に作ったのは、戦前のものが二度、三度と検閲禍に遭ったため、伊丹のシナリオの原型を残そうと思っただけであるが、それが大賞となったことで、やはり作ってよかったと思った」と述べている[7]。
なお、1943年版で撮影を担当した宮川一夫は、1958年版を生涯鑑賞しなかったといわれている。
脚注^ a b Muhomatsu no issho、インターネット・ムービー・データベース、2015年3月1日閲覧
^ 無法松の一生、allcinema、2015年3月1日閲覧
^ ⇒無法松の一生、キネマ写真館、2015年3月1日閲覧
^ a b c 田中純一郎『日本映画発達史W 史上最高の映画時代』、中央公論社、1976年
^ a b c 稲垣浩『ひげとちょんまげ 生きている映画史』、中央公論社、1981年
^ ⇒映画『無法松の一生』再生(W)
^ 稲垣浩『日本映画の若き日々』、毎日新聞社、1978年
外部リンク
⇒無法松の一生 - 日本映画データベース
無法松の一生 - allcinema
⇒無法松の一生 - KINENOTE
Muhomatsu no issho - IMDb(英語)
表
話
編
歴
稲垣浩監督作品
1920年代
天下太平記(1928年)
放浪三昧(1928年)
源氏小僧(1928年)
めくら蜘蛛(1929年)
続万花地獄 第二篇(1929年)
鴛鴦旅日記(1929年)
相馬大作 武道活殺の巻(1929年)
絵本武者修行(1929年)
1930年代
諧謔三浪士(1930年)
瞼の母(1931年)
元禄十三年(1931年)
一本刀土俵入(1931年)
弥太郎笠(1932年)
旅は青空(1932年)
時代の驕児(1932年)
国定忠治 旅と故郷の巻(1933年)
国定忠治 流浪転変の巻(1933年)
国定忠治 霽れる赤城の巻(1933年)
直八子供旅(1934年)
利根の川霧(1935年)