無条件降伏
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国家が無条件降伏をしている場合、講和条約を締結する際に戦勝国に「この条件で条約を受諾せよ」と提示された場合、法理論的には受諾しなければならない[8][注釈 2]

藤田久一によれば第二次世界大戦における連合国による無条件降伏の宣明は、枢軸国政府との交渉が不可能であり、文民政府による敵軍隊の内通を排除し、敵国民の再教育と民主化を軍事管理の下で行う必要があることなどを理由にしたものであったとする[9]

グローティウスは『戦争と平和の法』においてローマ法における信義(フィデス)の重要性を強調し「戦争においては常に講和を目標とすべき」であり「講和が締結された時は、その条件の如何を問わず、信義の真性のため、絶対にこれ(和平)を遵守すべきであって、すべての道は最大の良心と信義とを以って守るべきのみならず、敵対関係から善意(グラチア)に回復されたものをも特に守るべきである、とする[10]
主な事例
ペロポネソス戦争

ペロポネソス戦争紀元前431年-紀元前404年)の紀元前416年メロスアテナイ軍の攻撃を受け、陥落した。その際、メロスは市民の処遇をアテナイ側に全面的に任せるという条件で降伏し、その結果成人男子全員が処刑され、女子供は奴隷にされた。詳細は「メロス包囲戦」を参照
ディアドコイ戦争

古代マケドニア時代、アレクサンドロス3世急逝後その配下の将軍たちが大王の後継者(ディアドコイ)の座を巡って繰り広げた戦争の末期、講和を申し出たカッサンドロスに対しアンティゴノス1世が降伏を要求。これが戦争継続と帝国分裂の最終的な要因となった。詳細は「ディアドコイ戦争」を参照
カレー包囲戦

英仏百年戦争の初期、イングランド王エドワード3世がフランスの港湾都市カレーを包囲し開城させた戦い。11ヶ月の包囲の後、飢餓により市民が開城を申し出た時、エドワード3世は「全市民を処刑するも身代金を取るもエドワード3世の自由」とする無条件降伏を要求した。詳細は「カレー包囲戦 (1346年-1347年)」を参照
南北戦争詳細は「南北戦争」を参照

「無条件降伏」という用語は、1862年のドネルソン砦の戦いの際、旧友であった南軍の将軍サイモン・B・バックナーからの休戦の申し出に対して、包囲軍の司令官ユリシーズ・S・グラントが発した「『無条件』のみを降伏の条件として認める」という回答が初出であったとされる。この戦いは北軍にとって最初の勝利の一つであった。このとき新聞がグラントのイニシャルである U.S. と Unconditional Surrender とをかけて報道したために用語が広まった。

しかしこの逸話はいつしかアポマトックス・コートハウスにおいて、ロバート・E・リーが北軍に降伏した際のことであると誤解されるようになった[11]。フランクリン・ルーズベルト大統領もそう認識しており[11]、「無条件降伏」がどのような性質を持つかという説明に用いている[12]
ユーゴスラビア王国軍「ユーゴスラビア侵攻」も参照

1941年4月6日、ドイツ軍の航空部隊がユーゴスラビアに侵入し空爆をおこない、次いで多方面から国境を越えたドイツ軍がユーゴスラビア王国軍の守備隊を次々と打ち破った。ユーゴスラビア王国軍は総崩れとなった。休戦を求めるユーゴスラビア軍に対し、ドイツ側は無条件降伏を求め[13]、開戦からわずか11日後の4月17日に無条件降伏に追い込まれた[14]。ドイツとイタリア王国はユーゴスラビア国家を完全に解体し、枢軸国とクロアチア独立国によって分割された[13]。王室と政府は国外に逃亡し、亡命政府となって抗戦を継続したが、ヨシップ・ブロズ・チトー率いるパルチザンが権力を掌握したため、戦後復帰することは出来なかった。
ベトナム戦争

1975年4月30日に、北ベトナム軍の完全包囲の元で、ベトナム共和国(南ベトナム)政府が戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。ズオン・バン・ミン大統領は前日に就任したばかりであった。詳細は「ベトナム戦争」を参照
第二次世界大戦

1943年に行われたカサブランカ会談の時点では、連合国枢軸国に対して無条件降伏原則を取り、条件付き講和を認めない方針をとることになったが、これはアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの個人的な意向が強く反映されていた[15]
無条件降伏方針発表の経緯 

アメリカ政府内部での検討では、1942年5月6日に開かれた国務省の安全保障問題小委員会の中ですでに検討されていた。この委員会ではドイツと日本に対して無条件降伏を求めるという検討結果を満場一致で可決した[16]。42年1月1日の連合国共同宣言において「敵国に対する完全勝利」という表現を用いていたルーズベルトにとってこの報告は自らの考えに合ったものであり、この報告を受けたルーズベルトはその結論に賛成するという意向を伝えた[16]。この背景には第一次世界大戦の終結が降伏という形を取らなかったためにドイツ人は敗戦を受け止めず今次の大戦に至ったという考えと、ソビエト連邦に対独戦を最後まで戦い抜くというメッセージを伝える目的によるものであった[17]。ルーズベルトは1943年1月7日のアメリカ統合参謀会議の席上で、枢軸国に対して無条件降伏を求める方針を、ソ連のヨシフ・スターリンイギリスウィンストン・チャーチル首相に伝達する意向を明らかにし、カサブランカ会談の席上でチャーチルに伝達した。チャーチルは1月18日の合同参謀本部(英語版)において、無条件降伏まで戦争を継続するという声明を行うと発言した。しかし彼は声明を発する前に内閣と相談したいと付け加えた[18]

1月20日、チャーチルは本国の内閣に書簡を送り、無条件降伏の対象からイタリアを除いた上で発表するべきだとした[19]。しかし戦時内閣は全員一致でイタリアを含めた無条件降伏要求方針を求めた[19]。イギリスは、戦争の終結が無条件の降伏しかなく条件付き講和という方法が遮断されていれば、枢軸国は敗戦濃厚となっても休戦という決断は取らないで必然的に破れかぶれで戦争の継続を突き進む可能性が高く、弊害の方が大きいと考えられたため、この原則に賛成ではなかった。しかし、対日戦においてイギリスが単独講和するのではないかというアメリカの疑念を払拭するため、同意せざるを得なかったという側面が強かったとされる[20]

会談後に行われる予定であった記者発表の草案では、ドイツと日本に対してのみ無条件降伏を求めるとされていたが、チャーチルが(戦時内閣の意向を受けて[19])イタリアも書き加えた[21]。この草案作りはその後も続いたが、チャーチルはその課程で草案は無条件降伏について言及しなくなったとしている[21]。しかし1月24日に行われた記者会見の席上で、ルーズベルトは突然無条件降伏が原則であると発言した[21]


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