この原則は枢軸国においては、国民の奴隷化を狙っていると大いに宣伝されることになった。 ルーズベルトのカサブランカ会談後の説明では、「それ(無条件降伏)は、ドイツ、イタリア、日本の国民の破滅を意味するのではなく、他国民の征服と隷属に基礎をおくこれら諸国の哲学の破壊を意味する」としている[26]。また1944年7月29日のホノルルにおける会見で、南北戦争の際の無条件降伏を例に引き、戦争における無条件降伏は、敗者がまず無条件降伏を宣明することが重要であり、その後の対応によっては勝者は寛大な対応を取りうることと示した。ルーズベルトの認識では勝者が示す条件を、敗者が無条件に受け入れるという「条件付き無条件降伏」の見解はとられなかった[27]。 ルーズベルトが持ち出した「無条件降伏」による戦争終結過程は同盟国イギリスに少なからぬ困惑をもたらすものであった。ウィンストン・チャーチルは1944年2月のイギリス下院において「無条件降伏ということは勝った国々が自由裁量を持つという意味である。もちろん勝った国々が蛮行をほしいままにしてもいいという意味でもなければ、ドイツを欧州諸国の間から抹殺してしまうことを望んでいるわけでもない。 もし我々が縛られているとするならば文明に対するわれわれ自身の良心に縛られているだけである。いろいろな取引をやる結果縛られるのではない。これが無条件降伏の意味である。」と演説したことがある[28]。 1943年、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らは連合国と極秘に休戦交渉を行い、首相ベニート・ムッソリーニを解任、ピエトロ・バドリオを新首相とした。9月3日には連合軍とイタリアは休戦協定を締結し、9月8日にバドリオ首相は休戦条約締結を発表して国王一家とともに南部イタリアのブリンディシに脱出した。この時点での休戦協定には無条件降伏について言及されていなかったが、9月29日、連合軍司令部
ルーズベルトの解釈
チャーチルの解釈
イタリア王国詳細は「イタリアの降伏」および「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」を参照
ドイツはムッソリーニを救出して北部にイタリア社会共和国(サロ政権)を樹立させ、イタリア王国および連合国と交戦させた。10月にイタリア王国はドイツに宣戦布告しているが、この時点でイタリア王国は連合国の旧敵国であるが、枢軸国に対する共同参戦国という立場であった。 1943年11月1日のモスクワ宣言において、無条件降伏の対象はドイツ、イタリア、日本だけでなく、それと同盟関係にある諸国にも適用されることが明確化された[30]。しかし11月のテヘラン会談において、スターリンはチャーチルに対し、無条件降伏原則が敵の団結を招くだけであると批判し、その修正を求めた[31]。ルーズベルト自身やソ連の関係者は否定しているが、イギリスの外務省はこの発言がルーズベルトにも伝わったとしている[32]。ソ連やイギリスの反応を見たハルは、英ソと無条件降伏の定義について協議することを提案した。しかしルーズベルトは無条件降伏原則を改めることはなく、その意味について連合国間で協議することも拒否した[33]。 1944年、イギリスは東欧枢軸国(ルーマニア王国、ブルガリア王国、ハンガリー王国、フィンランド)を無条件降伏の対象から外すことを提案した。これをうけたハルは3月25日に、ルーズベルトにこれらの国を無条件降伏原則から外すよう提案した。しかしルーズベルトは例外を設けるべきではないと反論し、一切妥協しなかった[34]。 ドイツ軍代表は1945年5月7日にフランスのランスで降伏文書
東欧枢軸国の降伏問題
ドイツ「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」、「フレンスブルク政府」、および「ベルリン宣言 (1945年)」も参照
6月5日、連合軍はベルリン宣言においてドイツ軍の無条件降伏によってドイツは無条件降伏したとした上で、「ドイツには中央政府が存在しておらず、ドイツの主権を米英仏ソの四国が掌握する」と宣言した[36]。
ドイツの場合はイタリアや日本、衛星諸国の降伏とは異なり、一切事前に条件が提示されることのない完全な無条件降伏であった[37]。連合軍総司令部ドイツ問題政治担当顧問を務めていたロバート・ダニエル・マーフィーは「このドイツの降伏は、第二次大戦における唯一の真の意味の無条件降伏であった」と評している[38]。 ルーズベルトの死後、後継となったハリー・S・トルーマンは無条件降伏原則を維持すると発表したものの、日本に対する降伏要求ではその方針を修正し、いわゆる「条件付き無条件降伏」の方針をとることとなった[37]。終戦に伴う日本国軍隊の降伏は無条件降伏である。日本国が受諾したポツダム宣言第13条には、日本国軍隊の無条件降伏(と拒否を言明した場合、全滅に至るまでの攻撃を受けるであろう事)が定められている。この点「日本国」「日本」の無条件降伏とは表現されていない点は注意を要する[39]。同第9条には、「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」と日本国軍隊に関する規定が定められているので、日本国軍隊はこれに従い無条件降伏した。 ただし軍内部の一部の国体論者(畑中健二、小園安名など)は、無条件降伏すれば国体すなわち皇室が滅ぼされると反感を抱いて宮城事件や厚木航空隊事件などの反乱を起こすことになるが、いずれも軍上層部の説得の下、憲兵や警備隊により鎮圧された。また日本の降伏はアジアに広範囲に拡大した各戦線には即座に連絡がつかず、とりわけ満州および千島列島では9月上旬に至るまで組織的な戦闘が繰り返された。 国家としての日本国政府の場合、降伏が無条件の降伏ではなかったとする説、条件付の無条件降伏であったとする説、無条件の降伏であったとする説がある。 なお、いずれの説の立場をとるにせよ、大日本帝国政府と大本営は降伏文書を通じて天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項を実施する為適当と認むる処置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれること、ポツダム宣言とカイロ宣言の条項などを受け容れている。このため占領中は、この限りに於いて連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の命令と指示にしたがう必要があった。 また連合国の占領権限は、ポツダム宣言に明示された範囲を超えて適用された。たとえば1945年8月22日に日本外務省条約局は、在中立国外交公館に対し「帝国は米、英、支、蘇に対し「無条件降伏」を行なったが、連合国によって行われる主権の制限はポツダム宣言に明示された範囲に留まるとして、中立国との外交関係は従来の国際慣習通り存続できると解釈し、中立国在外公館の存続を訓令した[40]。
大日本帝国「ポツダム宣言」および「日本の降伏」も参照
日本国軍隊
日本国政府