1月20日、チャーチルは本国の内閣に書簡を送り、無条件降伏の対象からイタリアを除いた上で発表するべきだとした[19]。しかし戦時内閣は全員一致でイタリアを含めた無条件降伏要求方針を求めた[19]。イギリスは、戦争の終結が無条件の降伏しかなく条件付き講和という方法が遮断されていれば、枢軸国は敗戦濃厚となっても休戦という決断は取らないで必然的に破れかぶれで戦争の継続を突き進む可能性が高く、弊害の方が大きいと考えられたため、この原則に賛成ではなかった。しかし、対日戦においてイギリスが単独講和するのではないかというアメリカの疑念を払拭するため、同意せざるを得なかったという側面が強かったとされる[20]。
会談後に行われる予定であった記者発表の草案では、ドイツと日本に対してのみ無条件降伏を求めるとされていたが、チャーチルが(戦時内閣の意向を受けて[19])イタリアも書き加えた[21]。この草案作りはその後も続いたが、チャーチルはその課程で草案は無条件降伏について言及しなくなったとしている[21]。しかし1月24日に行われた記者会見の席上で、ルーズベルトは突然無条件降伏が原則であると発言した[21]。
この席での発表については、合同参謀本部でも討議されておらず、アメリカ大統領の軍事顧問であったウィリアム・リーヒ大将といった軍首脳には一切知らされていなかった[22]。軍関係者も戦線によっては無条件降伏以外の方法が終戦を早めると考えており、ジョージ・マーシャル参謀総長も無条件降伏の提示がドイツ・日本の降伏を遅らせた可能性があることを言及している[23]。ただし、連合国市民に勝利が近づいていると鼓舞する効果があったともしている。またアメリカ国務省のコーデル・ハル国務長官も無条件降伏原則の発表を聞かされておらず、「われわれ(国務省)の計画に暗影を投じることになった」と述懐している[24]。その後イギリスやソ連、さらにアメリカの軍や政府内からも原則の緩和や修正を目指す働きかけが何度も行われたが、ルーズベルトは全て拒絶した[25]。
この原則は枢軸国においては、国民の奴隷化を狙っていると大いに宣伝されることになった。 ルーズベルトのカサブランカ会談後の説明では、「それ(無条件降伏)は、ドイツ、イタリア、日本の国民の破滅を意味するのではなく、他国民の征服と隷属に基礎をおくこれら諸国の哲学の破壊を意味する」としている[26]。また1944年7月29日のホノルルにおける会見で、南北戦争の際の無条件降伏を例に引き、戦争における無条件降伏は、敗者がまず無条件降伏を宣明することが重要であり、その後の対応によっては勝者は寛大な対応を取りうることと示した。ルーズベルトの認識では勝者が示す条件を、敗者が無条件に受け入れるという「条件付き無条件降伏」の見解はとられなかった[27]。 ルーズベルトが持ち出した「無条件降伏」による戦争終結過程は同盟国イギリスに少なからぬ困惑をもたらすものであった。ウィンストン・チャーチルは1944年2月のイギリス下院において「無条件降伏ということは勝った国々が自由裁量を持つという意味である。もちろん勝った国々が蛮行をほしいままにしてもいいという意味でもなければ、ドイツを欧州諸国の間から抹殺してしまうことを望んでいるわけでもない。 もし我々が縛られているとするならば文明に対するわれわれ自身の良心に縛られているだけである。いろいろな取引をやる結果縛られるのではない。これが無条件降伏の意味である。」と演説したことがある[28]。 1943年、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らは連合国と極秘に休戦交渉を行い、首相ベニート・ムッソリーニを解任、ピエトロ・バドリオを新首相とした。9月3日には連合軍とイタリアは休戦協定を締結し、9月8日にバドリオ首相は休戦条約締結を発表して国王一家とともに南部イタリアのブリンディシに脱出した。この時点での休戦協定には無条件降伏について言及されていなかったが、9月29日、連合軍司令部
ルーズベルトの解釈
チャーチルの解釈
イタリア王国詳細は「イタリアの降伏」および「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」を参照
ドイツはムッソリーニを救出して北部にイタリア社会共和国(サロ政権)を樹立させ、イタリア王国および連合国と交戦させた。10月にイタリア王国はドイツに宣戦布告しているが、この時点でイタリア王国は連合国の旧敵国であるが、枢軸国に対する共同参戦国という立場であった。 1943年11月1日のモスクワ宣言において、無条件降伏の対象はドイツ、イタリア、日本だけでなく、それと同盟関係にある諸国にも適用されることが明確化された[30]。しかし11月のテヘラン会談において、スターリンはチャーチルに対し、無条件降伏原則が敵の団結を招くだけであると批判し、その修正を求めた[31]。ルーズベルト自身やソ連の関係者は否定しているが、イギリスの外務省はこの発言がルーズベルトにも伝わったとしている[32]。ソ連やイギリスの反応を見たハルは、英ソと無条件降伏の定義について協議することを提案した。しかしルーズベルトは無条件降伏原則を改めることはなく、その意味について連合国間で協議することも拒否した[33]。 1944年、イギリスは東欧枢軸国(ルーマニア王国、ブルガリア王国、ハンガリー王国、フィンランド)を無条件降伏の対象から外すことを提案した。これをうけたハルは3月25日に、ルーズベルトにこれらの国を無条件降伏原則から外すよう提案した。しかしルーズベルトは例外を設けるべきではないと反論し、一切妥協しなかった[34]。 ドイツ軍代表は1945年5月7日にフランスのランスで降伏文書
東欧枢軸国の降伏問題
ドイツ「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」、「フレンスブルク政府」、および「ベルリン宣言 (1945年)」も参照
6月5日、連合軍はベルリン宣言においてドイツ軍の無条件降伏によってドイツは無条件降伏したとした上で、「ドイツには中央政府が存在しておらず、ドイツの主権を米英仏ソの四国が掌握する」と宣言した[36]。