無条件降伏
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1943年、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らは連合国と極秘に休戦交渉を行い、首相ベニート・ムッソリーニを解任、ピエトロ・バドリオを新首相とした。9月3日には連合軍とイタリアは休戦協定を締結し、9月8日にバドリオ首相は休戦条約締結を発表して国王一家とともに南部イタリアのブリンディシに脱出した。この時点での休戦協定には無条件降伏について言及されていなかったが、9月29日、連合軍司令部(英語版)司令官ドワイト・D・アイゼンハワーはイタリア国および三軍が無条件降伏を行ったように休戦協定を改定することを要求し、11月9日に条約改定が行われた[29]

ドイツはムッソリーニを救出して北部にイタリア社会共和国(サロ政権)を樹立させ、イタリア王国および連合国と交戦させた。10月にイタリア王国はドイツに宣戦布告しているが、この時点でイタリア王国は連合国の旧敵国であるが、枢軸国に対する共同参戦国という立場であった。
東欧枢軸国の降伏問題

1943年11月1日のモスクワ宣言において、無条件降伏の対象はドイツ、イタリア、日本だけでなく、それと同盟関係にある諸国にも適用されることが明確化された[30]。しかし11月のテヘラン会談において、スターリンはチャーチルに対し、無条件降伏原則が敵の団結を招くだけであると批判し、その修正を求めた[31]。ルーズベルト自身やソ連の関係者は否定しているが、イギリスの外務省はこの発言がルーズベルトにも伝わったとしている[32]。ソ連やイギリスの反応を見たハルは、英ソと無条件降伏の定義について協議することを提案した。しかしルーズベルトは無条件降伏原則を改めることはなく、その意味について連合国間で協議することも拒否した[33]

1944年、イギリスは東欧枢軸国(ルーマニア王国ブルガリア王国ハンガリー王国フィンランド)を無条件降伏の対象から外すことを提案した。これをうけたハルは3月25日に、ルーズベルトにこれらの国を無条件降伏原則から外すよう提案した。しかしルーズベルトは例外を設けるべきではないと反論し、一切妥協しなかった[34]
ドイツ「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」、「フレンスブルク政府」、および「ベルリン宣言 (1945年)」も参照

ドイツ軍代表は1945年5月7日にフランスのランスで降伏文書(英語版)に調印し、その際に5月8日23時01分を以てドイツは戦闘行為をやめ、占領下に入ることが決定された。また改めて5月8日にベルリンのカールホルストで批准手続きが始められ、9日夜に降伏文書調印を行った事で降伏した[35]

6月5日、連合軍はベルリン宣言においてドイツ軍の無条件降伏によってドイツは無条件降伏したとした上で、「ドイツには中央政府が存在しておらず、ドイツの主権を米英仏ソの四国が掌握する」と宣言した[36]

ドイツの場合はイタリアや日本、衛星諸国の降伏とは異なり、一切事前に条件が提示されることのない完全な無条件降伏であった[37]。連合軍総司令部ドイツ問題政治担当顧問を務めていたロバート・ダニエル・マーフィーは「このドイツの降伏は、第二次大戦における唯一の真の意味の無条件降伏であった」と評している[38]
大日本帝国「ポツダム宣言」および「日本の降伏」も参照
日本国軍隊

ルーズベルトの死後、後継となったハリー・S・トルーマンは無条件降伏原則を維持すると発表したものの、日本に対する降伏要求ではその方針を修正し、いわゆる「条件付き無条件降伏」の方針をとることとなった[37]。終戦に伴う日本国軍隊の降伏は無条件降伏である。日本国が受諾したポツダム宣言第13条には、日本国軍隊の無条件降伏(と拒否を言明した場合、全滅に至るまでの攻撃を受けるであろう事)が定められている。この点「日本国」「日本」の無条件降伏とは表現されていない点は注意を要する[39]。同第9条には、「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」と日本国軍隊に関する規定が定められているので、日本国軍隊はこれに従い無条件降伏した。

ただし軍内部の一部の国体論者(畑中健二小園安名など)は、無条件降伏すれば国体すなわち皇室が滅ぼされると反感を抱いて宮城事件厚木航空隊事件などの反乱を起こすことになるが、いずれも軍上層部の説得の下、憲兵や警備隊により鎮圧された。また日本の降伏はアジアに広範囲に拡大した各戦線には即座に連絡がつかず、とりわけ満州および千島列島では9月上旬に至るまで組織的な戦闘が繰り返された。
日本国政府

国家としての日本国政府の場合、降伏が無条件の降伏ではなかったとする説、条件付の無条件降伏であったとする説、無条件の降伏であったとする説がある。

なお、いずれの説の立場をとるにせよ、大日本帝国政府と大本営は降伏文書を通じて天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項を実施する為適当と認むる処置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれること、ポツダム宣言とカイロ宣言の条項などを受け容れている。このため占領中は、この限りに於いて連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の命令と指示にしたがう必要があった。

また連合国の占領権限は、ポツダム宣言に明示された範囲を超えて適用された。たとえば1945年8月22日に日本外務省条約局は、在中立国外交公館に対し「帝国は米、英、支、蘇に対し「無条件降伏」を行なったが、連合国によって行われる主権の制限はポツダム宣言に明示された範囲に留まるとして、中立国との外交関係は従来の国際慣習通り存続できると解釈し、中立国在外公館の存続を訓令した[40]。しかしGHQは外務省に在外公館との接触を禁じ、在外公館は資料・資産を連合国に引き渡すこととなり、日本は外交権を1951年まで失うこととなった[41]
無条件降伏論争

1978年、文芸評論家の江藤淳本多秋五の間で「無条件降伏論争」が行なわれた(江藤『全文芸時評』『もう一つの戦後史』、『本多秋五全集』第13巻)。論争は文学者間で行われたもので、日本の降伏の本質の捉え方と野間宏ほかに代表される戦後文学をどう評価するかの二点が問題となった。降伏について、江藤はポツダム宣言にある条件を受諾した降伏であるから無条件降伏ではなく、宣言中にある無条件降伏は日本国軍隊についてのみであるから、無条件降伏したのは日本国ではなかったと主張した。本多はカイロ宣言にあった日本国の無条件降伏の思想はポツダム宣言にも通底していたとし、「大括弧でくくられる『無条件降伏』の思想と小括弧でくくられる『有条件降伏』の方式とが同時に存在する」と主張した[42]。論争の後に国際法を専門とする高野雄一は朝日新聞紙上で解説を行ない、ドイツと異なり政府の存続を認められたのが日本の降伏であるとした上で、無条件降伏ではないという点では江藤が正しいとした。ただし、江藤が従属制限の法的条項には論争で全然触れておらず、「日本は明示された諸条件の下に主権を維持しつついわば約束ずくの降伏」をしたとして、占領管理下の日本をもそう理解しているようであるならば、それは誤りだと指摘する[43]。江藤は後の講演で、“その後学術的に高野らに明確に反論した者はなく、ポツダム宣言受諾は条件つき降伏であるとの論が有力である”と語っている[44]
無条件降伏ではないという説

小堀桂一郎が以下のように主張している。ドイツ政府は征服によって消滅し聯合国の完全なる支配の下に置かれることとなったが、日本政府と聯合国との法的関係はドイツのそれとは異なる基礎の上に立つものである。これは休戦に至った経緯の差異に基づく。日本は聯合国のポツダム宣言を受諾することとなり、そこに条件が示されている。そして降伏文書自体もその宣言即ち「下名はここにポツダム宣言の条項を誠実に履行すること並に右宣言を実施する為聯合国最高司令官の要求することあるべき一切の命令を発し且かかる一切の処置を執ることを天皇、日本政府及その後継者の為に約す。」又「天皇及日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる処置を執る聯合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす。」と援用されている。この文書は「降伏文書」という形式をとってはいるが、締約国を拘束する国際協定の性質を持つものであり、相互的な義務及び権利が存することとなったものである。ポツダム宣言自体一つの条件であり、第5條には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されている。「無条件降伏」という文字はポツダム宣言第十三條及び降伏文書第二項にも使用されているがこれは何れも日本の軍隊に関することであって、これが為にポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を喪うものであると解すべきではない。 ? 小堀『東京裁判 日本の弁明』「却下未提出弁護側資料」

青山武憲は日本は国体護持という条件を突付け戦闘行為を終えたものであり、無条件降伏ではなく条件付降伏であったと主張する[45]

高橋正俊はポツダム宣言は条件付休戦条約であると考えられているとする[46]


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