無所属の会_(1999)
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しかし、2003年の総選挙後に無所属の会を離党し、同年12月に民主党に入党。渡部恒三

三代目代表 渡部恒三
小沢一郎とともに自民党を離党後は、新生党・新進党結党と行動を共にした。新進党副党首であったが、1996年に衆議院副議長になるにあたり慣例により党籍離脱。1996年12月の新進党分裂後は、小沢や羽田どちらに与することなく無所属の会を唯一の所属政党として政治活動を続けた。2003年副議長退任直後に無所属の会代表の田名部匡省が離党をしたため、無所属の会代表に就任。しかし、翌年に無所属の会を自ら解党し民由合併をした民主党に入党。
所属衆議院議員

柿澤弘治
羽田内閣外務大臣。所属政党は多岐にわたるため省略。衆院議員を一度辞職し1999年東京都知事選挙に出馬した。当時柿澤が所属していた自民党は明石康を推したが、柿澤はその方針に従わずに出馬を強行したため、自民党を除名された(この選挙では明石康、柿澤の他、国際政治学者の舛添要一、衆院議員を辞職し民主党を離党した鳩山邦夫らが出馬し候補者が乱立したが、結局は元自民党衆院議員の石原慎太郎が当選した)。2000年第42回衆議院議員総選挙に完全無所属で出馬して当選した後、無所属の会に入党した。2003年第43回衆議院議員総選挙では無所属の会公認で再選に臨むも、落選。そのまま政界を引退した。2009年死去。

粟屋敏信
羽田・岡田克也らとともに自民→新生→新進→太陽党民政党を結党。太陽党政調会長。2003年の総選挙には出馬せず、政界を引退。

中田宏
日本新党→新進党。衆議院内では民主党と統一会派を組んだ(民主党・無所属クラブ)。しかし、2001年の首班指名選挙で自民党の小泉純一郎に投票したため、菅直人(当時民主党幹事長)により会派から除名される。2002年、横浜市長に転出。市長就任後も無所属の会解党まで同党所属を続けていた。

土屋品子
1996年完全無所属で当選。無所属は父・土屋義彦からの厳命である。義彦は当時埼玉県知事で、自民・新進・民主・公明から支持を得て知事職二期目に再選されたばかりだった。無所属の会には結党より参加。2001年9月26日までに無所属の会を離党し、同日自民党に入党。のち外務大臣政務官等を務める。

三村申吾
無所属の会田名部匡省参院議員の支援のもとで、無所属の会公認候補として、2000年当選。衆院議員となる。衆議院内では民主党と統一会派を組んだ(民主党・無所属クラブ)。しかし、2001年の首班指名選挙で小泉純一郎に投票、会派から除名される。2003年青森県知事に転出(このときまでに自民党系となっていた)。

近藤基彦
2000年第42回衆議院議員総選挙で完全無所属として当選、保守系無所属衆院議員たちの院内会派「21世紀クラブ」(当時山本幸三代表、9人)に入るも、同年12月、代表の山本を含む5人が自民党に集団入党。しかし近藤・金子・宇田川の三名は自民党入党を拒まれ、2000年12月27日付で無所属の会入党(ちなみに、同会派で無所属のままとなった最後の1人は森田健作衆院議員であった)。しかし2001年12月までに無所属の会を離党し、自民党に新たに入党。農林水産副大臣などを務める。

金子恭之
2000年第42回衆議院議員総選挙で完全無所属として当選、会派「21世紀クラブ」への参加から上記の事情により2000年12月27日付で無所属の会入党。2001年11月28日までに無所属の会を離党し、自民党に新たに入党。国土交通副大臣などを務める。

宇田川芳雄
2000年第42回衆議院議員総選挙で完全無所属として当選、会派「21世紀クラブ」への参加から上記の事情により無所属の会入党。2003年第43回衆議院議員総選挙に無所属の会公認として再選に臨むも落選(同一選挙区に同党ベテランの島村宜伸がいて、彼が当選を続けていたからだと思われる)。そのまま政界引退。次男聡史が政治活動を継いでいる(都議。当選後に自民に正式入党)。

山口壯
2000年第42回衆議院議員総選挙で完全無所属として当選、のち無所属の会入党。衆議院内では民主党と統一会派を組んだ(民主党・無所属クラブ)。2003年第43回衆議院議員総選挙に無所属の会公認として再選に臨むも落選。2005年に民主党入りし、総選挙に臨み小選挙区で敗退するも比例復活当選。民主党「次の内閣」外務大臣に就任するも、2013年に民主党を離党、2015年に自民党入党。

笹木竜三
新進党分裂後、新進党の残党から離れて、無所属の会を結党。しかし結党から3か月後、2000年4月の首相指名選挙で、隣接県とはいえなんと森喜朗(福井県と隣接している石川県南部の石川2区が地盤)の首相指名を支持する(ただし地盤としている旧福井1区は石川県には隣接しておらず、旧福井3区が石川県と隣接していた)。バーターとして、次期総選挙での自民公認が確約されそうになるも、実際(2000年11月、第42回総選挙)の選挙では公認をもらえず、無所属で立ち落選。衆院議員の職を失う。2003年選挙でも非自民非民主の完全無所属として出馬し敗退。2005年に民主党入りし、総選挙に臨み小選挙区で敗退するも比例復活当選。民主党「次の内閣」初代防衛大臣等を歴任。
所属参議院議員

山本正和
社民党副党首・参院議員会長。2001年に、参議院において、社民党に、自由党と無所属の会などを加えた統一会派づくりを進めていたところ、福島瑞穂幹事長の反対によって、統一会派作りが頓挫した。党での身の置き場を失った山本は同2001年12月25日に自ら離党し(後に除名処分)、単身、無所属の会に加入した。結局統一会派は「国会改革連絡会(自由党・無所属の会)」として翌2002年に結実した。2004年(参議院議員選挙に不出馬で)政界引退。

堂本暁子
日本社会党から平和裏に新党さきがけに移籍、最後は新党さきがけ議員団座長(実質的な代表)を務めた。参議院クラブを作った後無所属の会を結党。2001年千葉県知事に転出(2期務めた後、再々出馬せずに政界引退)

松岡満寿男
松岡洋右第2次近衛内閣の外相)の甥の息子。細川護煕近衞文麿の孫)とともに日本新党を結党し、日本新党代表幹事として細川に仕えた。新進党には細川とともに結党時から参加。1996年衆院選挙で落選。1998年に再度参院に完全無所属で出馬し当選。政党「無所属の会」には結党時から加わる。政党「無所属の会」幹事長。参院院内会派「無所属の会」(2003年版)の代表を務めるも、それから3か月経たない2003年11月の総選挙後、無所属の会を離党し、2003年12月に民主党に新たに入党。2004年(参議院議員選挙に不出馬で)政界引退。

島袋宗康
沖縄社会大衆党委員長、第二院クラブ代表。2001年参院選挙で、第二院クラブの議員が(離党されてしまったため)本当に自分ひとりになってしまったため、かつ当時自由連合と院内統一会派を組んでいたものの、その自由連合の参院議員が落選で一人もいなくなってしまったため、政党としても会派としても一人になってしまった(無所属と同じ)。そこで無所属の会・自由党の統一会派「国会改革連絡会」に加わり、かつ、社会大衆党、第二院クラブを存続させたまま、政党としての「無所属の会」にも入党した。2004年(参議院議員選挙に不出馬で)政界引退。

水野誠一
鳩山由紀夫から請われて新党さきがけに入党し、参議院議員となる。新党さきがけ政調会長。参議院クラブを作った後無所属の会を結党。2001年静岡空港反対」を掲げて静岡県知事選挙に出馬したが落選。そのまま政界引退。水野に勝ったのは静岡空港を積極推進する現職(当時)石川嘉延であった。

岩本荘太
1998年、民主・自由・社民・さきがけにより推薦された無所属候補(反自民統一候補)として、参議院議員選挙で自民党現職を破り当選を果たす。議員就任後は推薦したどの党にも入党せず、無所属の会に入党した。妻の介護を理由に、2004年(参議院議員選挙に不出馬で)政界引退。
地方議員

つぎに挙げる都議会議員が政党「無所属の会」の所属であった。

三浦政勝

藤川隆則

沢西きよお

山崎泰

山崎を除き、政界から引退した。藤川は、のちに民主党会派に所属した。山崎はいったん政界引退するも、2010年、日本創新党民主党に関与する形で政治活動を再開した。さらに2012年には日本維新の会より、第46回衆議院議員総選挙の公認候補となるが、出馬辞退。2013年には第23回参議院議員通常選挙に比例代表から出馬するが、落選している。

他に青森を中心に地方議員に推薦を出しており、推薦候補の複数が当選した。
無所属の会では当選を果たせなかった所属候補者

亀岡偉民
かつて完全無所属で衆院選に出馬し落選していた。無所属の会に正式入党し、2003年第43回衆議院議員総選挙に無所属の会公認として臨むも落選。無所属の会消滅後2005年に自民党入りし、総選挙に臨み初当選。

平口洋
政界引退する粟屋敏信の後継者として、同選挙区にて2003年第43回衆議院議員総選挙に無所属の会公認として臨むも落選。無所属の会消滅後の2004年に自民党入りし、2005年総選挙に臨み初当選。


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