烏桓
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彼女が死ねば、元の夫と一緒に葬られる。
産業

彼らはみな鳥獣の繁殖の時期をよく知っていて、それによって四季を区別する。例えば、畑を耕し種を蒔く仕事は、布穀鳥(カッコウ)が鳴くのを合図にするのである。その土地は青?(くろきび)や東牆(とうしょう)の成育に適している。東牆はヨモギのような草で、実はの種に似て、10月に実る。白酒を作る技術はあるが、(こうじ)を作ることは知らない。は常に中国からの供給に頼っている。大人たちは、弓矢(くら)・(くつわ)を作り、を鍛造して兵器を作ることができ、また皮にきれいな刺繍をし、毛氈(もうせん)を織り出すことができる。
病気

病気になると、彼らの知識では、(もぐさ)でお灸をしたり、あるいは焼いた石を患部に押し当て、火を焚いて暖めた土の上に寝転がり、あるいは痛みのある病気の個所ごとに、小刀で血管を切って瀉血する。また天地山川の神々に病気の平癒を祈願する。はない。基本、戦闘で死ぬことが貴ばれる。
葬祭

屍体を納めるのにが用いられる。死んだ当初は哭泣するが、葬儀のときには歌舞によって死者を送り出す。充分に肥らせておいたを、彩りのある綱でつないで、死者が乗っていた馬やその着物、生前の装飾品と一緒にまとめ、それらに火をかけて火葬する。特にその犬は、死者の神霊()を護って、赤山まで導いてゆく役目を負わされている。埋葬の日には、夜になると親族や古なじみたちが集まって車座になり、犬と馬を引いて順番にその座を回る。歌ったり哭したりしている者たちは、肉を投げてやったりする。死者の魂が険阻な場所をまっすぐ通り抜け、悪い精霊たちに邪魔をされず、無事に赤山に行きつけるよう2人の者に呪文を唱えさせる。それが終わると、犬と馬を殺し、衣服と一緒に焼く。彼らは鬼神を敬い、天地や日月星辰や山川を祭り、死んだ大人のうちで武勇に誉れ高い者にも、同様に牛羊を捧げて祭る。祭りが終わると、奉げものは全て焼いてしまう。飲食をする場合には、まずその一部を神々への捧げものとする。
刑罰

彼らの間の掟として、大人の命令に背いた者は死刑、盗みを止めない者は死刑の2条がある。殺害事件が起こったときには、部落の間で報復を行わせる。互いに報復し合ってやまない時には、大人のもとに出て判決を受ける。有罪とされたものは、自分の牛や羊を出して生命をあがなうことによって、事件は落着する。自分自身の父や兄を殺したときには罪にならない。逃亡した後大人に捕えられた者は、どこの邑落もその身柄を引き受けようとはせず、みんなして“雍狂の地”に追いやってしまう。“雍狂の地”というのは、山はなく、砂漠と水沢と草木が生えるばかりで、マムシが多く、丁令の西南、烏孫の東北に当たる。そこに追いやって苦しめるのである。
民族・言語系統と名称
民族・言語系統

まず、烏桓族の祖先は東胡であると『三国志』や『後漢書』などの中国の史書は伝えている。しかし、その東胡の言語系統については、ツングース説、モンゴル説、ツングースとモンゴルの混合説などとはっきりしていない。また、烏桓と同族とされる鮮卑についても、モンゴル説、テュルク説、モンゴルとテュルクの混種説など諸説ある。
名称

『三国志』烏丸等伝の注釈『王沈魏書』,『後漢書』烏桓鮮卑列伝などはすべて、東胡の生き残りがそれぞれ烏桓山と鮮卑山に拠り、その山の名前が民族名となったということを記している。しかし、多くの研究者は逆に烏桓鮮卑族がもともとその山を根拠地としていたために、民族名が山の名前となったとしている。そこで、「烏桓」という名の語源はというと諸説あり、その中でも3つの説が有力視された。

白鳥庫吉のukhagan(蒙古語:知識・聡明)説…白鳥氏は北方民族の尊称で「聡明」の意味を使用しているのは少なくないとし、例えば、匈奴では太子のことを「左屠耆王」といい、「屠耆(とき)」とは「賢明(聡明)」の意味であり、突厥回鶻の君主号可汗(カガン)の尊称「?伽可汗(ビルゲカガン)」の「?伽(ビルゲ、bilga)」とは「賢明(聡明)」の意味で、蒙古の尊号に「薛禅(tsetsen)」とあるのも「聡明」の意味であるとし、「烏桓(ukhagan)」とは、東胡の王より与えられた称号のひとつであるとした。

馮家昇のubusun(蒙古語:草)説…馮氏はまず、烏桓(うがん、w?huan)と宇文(うぶん、y?wen)を同じものと考え、『資治通鑑』巻八十一太康六年注引『何氏姓苑』において、「宇文氏は炎帝の出自であり、その後、草の効能を試したため、鮮卑語で草をいう『俟汾(しふん、qifen/sifen)』から、俟汾氏と名乗り、その後訛って『宇文氏』となった」とあることから、長城付近の蒙古語で草をいうebesu/ebesun、喀爾喀(ハルハ)語で草をいうubusu/ubusun、ブリヤート語で草をいうobuhim/obohonより、「烏桓(w?huan)」 の語源は「草(ubusun)」であるとした。

丁謙のulan(蒙古語:紅)説…丁氏は、烏桓は烏桓山という山の名前からついた族名であるという史書の記載を遵守し、蒙古語で紅を烏蘭(うらん、ulan)といい、『王沈魏書』に出てくる赤山(上記に記載)とはulan山の意訳であり、烏桓山はその音訳であって烏桓とは「赤」の意味であるとした。

この3つの説の中では丁謙のulan説が一番信憑性がありそうだが、それを立証する史料がないのではっきりしたことは言えない。しかし、この3つの説の他に『北アジア史研究』を著した内田吟風は、「烏桓=帰順来降者」という説を提唱した。

内田吟風の帰順来降者説…内田氏は、3つの視点から「烏桓」は「帰順」という意味であるとした。第一に、匈奴の屠耆単于(在位:紀元前58年 - 紀元前56年)が呼韓邪単于(在位:紀元前58年 - 紀元前31年)に敗れ自殺し、その子である王定がに降り信成侯に封ぜられた際、『漢書』景武昭宣元成功臣表第五にて屠耆単于を「匈奴烏桓屠耆単于」と記しているのは、屠耆単于の子である王定が漢に帰順したので「匈奴の帰順せる屠耆単于」という意味で王定らが父を追称したからではないか。第二に、王莽始建国2年(10年)九月、の西域戊己校尉史の陳良と終帯が漢大将軍を称し、戊己校尉史の?護(ちょうご)を殺して匈奴に帰順した際、烏珠留若?単于(在位:紀元前8年 - 13年)は彼らを大いに歓迎して単于庭(宮中)に留まらせ「烏桓都将軍」の称号を授けたと『漢書』匈奴伝、王莽伝に記されており、これを「帰義来降の大将軍」という意味でとるのが妥当である。第三に、鮮卑代王拓跋什翼?339年に代国の諸制度を立てたことを、『魏書』官氏志にて「その諸方来附者、総じて烏丸といい、各多少をもって酋庶長と称す」とあり、これを烏丸=帰順来附者の巨証であるとし、これら3つの明証をもって「烏桓」とは東胡人が匈奴に帰服したために「帰順」という意味の「烏桓」という族名を授かったとした。

実際、近代蒙古語で投下奴隷をunaganといい、信憑性はありそうである。また、Edwin G. Pulleyblank は、古代中国人は外国語の「a」をしばしば「烏」で写す例が多く、音声上では烏桓の古音はah-hwarでありうる可能性が強く、烏桓はむしろ後世ヨーロッパに侵入したアジアの遊牧民族Awar(アヴァール)を写したものではないかとしている。もし烏桓がAwarを写したものであり、Awarがモンゴル語のabarga(蛇・蠕動)と連結するならば、烏桓族はテュルク・モンゴル族に普遍的にみられる狼をトーテム獣とするが、その狼を虫(蛇)という隠語で呼んだ柔然族の祖であった可能性が高い。いずれにせよ烏桓の原音原義を決定的に断定するには、今後の研究を要するべきであろう。
主な指導者

?旦(
光武帝の時代)…建武25年(49年)に朝貢。

欽志賁(永平年間)…漁陽の烏桓。反乱を起こすが、暗殺される。

無何(安帝の時代)…漁陽・右北平・雁門の率衆王。永初3年(109年)反乱を起こす。

於秩居(安帝の時代)…元初4年(117年)、漢とともに、鮮卑連休を討つ。<『後漢書』鮮卑伝>

戎末?(順帝の時代)…親漢都尉として漢朝に貢献。率衆王の位を与えられる。

阿堅と羌渠(順帝の時代)…永和5年(140年)、南匈奴とともに、反乱を起こす。<『後漢書』烏桓伝>

遼西郡


丘力居霊帝から初平年間)

楼班(? - 207年)…丘力居の子。成長してから単于となる。

?頓(初平年間 - 207年)…丘力居の従子で、丘力居の後を継ぐ。袁紹より単于の称号を受ける。

護留(曹叡の時代)…237年に朝貢。

上谷郡


難楼(那楼と同一人物か?)(? - ?)…袁紹より単于の称号を受ける。

那楼(建安年間)…単于代行。

遼東属国


蘇僕延(? - ?)…峭王を自称。袁紹より単于の称号を受ける。

速僕丸(速附丸)(? - 207年)…単于。公孫康に討ち取られる。

右北平郡


烏延(? - 207年)…汗魯王を自称。袁紹より単于の称号を受ける。

能臣抵之(? - 207年)…単于。曹操に討ち取られる。

寇婁敦(曹叡の時代)…237年に朝貢。

代郡


普富盧(建安年間)…単于代行。216年に朝貢。

能臣?(建安年間)…218年軻比能と手を組み、反乱を起こす。

修武盧(普富盧と同一人物か?)…軻比能の配下

骨進(曹丕の時代)…魏の国境地帯を侵攻するが、護烏桓校尉の田豫に斬り殺された。


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