火葬場
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しかし、衛生上人道上の問題があまりにも深刻かつ、都市部で埋葬用墓地が増加することは高税地が無税地化することであり、埋葬墓地が増加すれば、将来都市計画上大きな問題を起こすと大蔵省も火葬禁止令に反対し、仏教指導者や大学者からも火葬再開を訴える建白書が相次いだことから、この火葬禁止布告は約2年後の明治8年(1875年)5月23日に廃止[17] され、その後明治政府は火葬場問題から宗教的視点を排して公衆衛生的観点から火葬場を指導するようになり、火葬を推進するようになった。この火葬禁止期間は多くの人々に火葬の必要性を再認識させることになり、火葬禁止布告が廃止されると、今まで寺付属や集落または個人所有の簡易な火葬場しかなかった町村の長をはじめ、多くの財閥や資産家からも火葬場建設請願(火葬場新設許可申請)が出された。

新政府や地方行政府は明治時代初頭から「火葬」「火葬場」という呼称を用い始めたが、暫くは公文書上に「梵焼」「火屋」「焼場」「焼屍爐」などの記述もあって混用していたようである。明治17年(1884年)に布告された「墓地及埋葬取締規則」[18] の第一条では「墓地及ヒ火葬場ハ管轄帳ヨリ許可シタル区域ニ限ルモノトス」と規定しており、これ以降の公文書では一貫して「火葬場」と記述するようになり、同時期に新聞や書籍でも「火葬場」という記述が一般化した。また、政府は同年11月18日に「墓地及埋葬取締規則ヲ施行スル方法(細目)ヲ警視総監・府知事・県令デ定メテ内務卿へ届ケ出ルベシ」とし、細目標準を各府県に提示した[19]。細目標準の第6条・第7条では火葬場に関する規制を定めており、人家や人民輻輳地(人が集まる場所、交通量の多い場所)から百二十間(218m)以上離れた風上以外の場所を選べ、爐筒(耐火物で囲われた燃焼室)と烟筒(煙突)を備えて臭煙害を防げ、周囲に塀または柵を設けて敷地境界を明確にせよ、火葬はなるべく日没後に行え、と規定していた。

火葬場に関する規則を定めていなかった各県ではこれを受けて、具体的な離隔距離、操業を許可する時間[注 10]、炉の構造概要など、ほぼ細目標準に準じた内容の取締細目を定めて施行した。

防疫衛生面では、明治時代初頭から度々伝染病が流行していて、政府はその度に、伝染病屍体の埋葬(土葬)に制限を附して伝染病屍体は原則火葬としなければならないとする旨の規則[20] や法律[21] を布告したので、火葬習慣の無かった地域では自治体主導で火葬場の新設が進むようになった。

明治19年(1888年)のコレラ大流行時に病屍体の火葬が渋滞し、樽桶に収めて野積みされた病屍体が腐乱するなど処置に混乱をきたした東京府は、火葬場臭煙害の防止と伝染病流行時の火葬能力維持および、墓地及び埋葬取締規則施行方法細目標準と東京府火葬場取締規則の相違点を整合させる目的から、明治20年(1887年)4月11日に東京府火葬場取締規則を改正[22] し、府内の火葬場数制限を5から8箇所にする事、操業時間は、日没から翌朝日の出までとする事、火葬炉は25基以上備える事、煙突高さを60尺(約18m)以上とする事、人家より百二十間(218m)以上隔てる事、伝染病患者排泄物用焼却炉と消毒所を併設する事などを定めた[注 11]

他府県でも東京府の火葬場取締規則改正に倣って、操業時間、煙突高さ、伝染病患者排泄物用焼却炉や産褥物胞衣汚物[注 12] 用火葬炉の併設を追加規定した自治体が多い。

江戸時代から220年に亘り江戸最大規模を誇っていた小塚原火葬場は、明治8年(1875年)の火葬禁止令廃止後、当時最新の煉瓦造木薪火葬炉と煙突、瓦屋根漆喰塗壁の建屋を備えた火葬場へと改築して明治9年(1876年)6月より操業していたが、この明治20年・火葬場取締規則改正により、第七条ノ一「人家より百二十間以上隔てる」の項目で不適格となってしまって操業停止に追い込まれた。これにより東京(江戸)にて最大かつ最長の歴史を持つ火葬地が消えることになった。小塚原火葬場の各営業人は、その後移転先を求めるが見つからず、明治21年(1887年)12月14日・東京市区改正設計(都市計画)委員会にて北豊島郡町屋村に火葬場用地が定められたのを受け、町屋火葬会社を設立して、明治26年(1893年)に操業開始した[注 13][23][24]

都市部では明治時代後期頃より、宗教団体や民間が所有または経営する火葬場や野焼き場を統廃合して自治体や行政組合の経営および、無煙化無臭化の新案を凝らした近代的火葬炉を備えた火葬場が増えていくことになる[注 14][注 15][注 16]。ただし、東京府(現在の23区に該当する区域)は例外であり、公営火葬場の設営が進まぬ中、一株式会社が合併吸収を繰り返して多数の火葬場を経営していくことになる。また、同じ頃から製材技術の進歩や葬祭業界の発展により、寝棺の価格が下がり一般庶民でも入手容易になるにつれ、座棺用火葬炉が減少して寝棺用火葬炉を備える火葬場が増えていく。
大正時代

明治時代までの主たる火葬燃料は、・木薪・木炭であり、日没後に火葬開始(点火)して翌朝に拾骨するのが普通(多くの自治体で日中火葬を禁止していた)であったが、大正時代後半には、電気式火葬炉[25]石炭コークスを用いる火葬炉、電動送風機と重油バーナーを併用する火葬炉[26] が出現して燃焼速度が飛躍的に速まり、即日拾骨が可能になった。また、即日拾骨が可能になると、火葬場内に会葬者用控室や休憩室を設ける施設が増えていく。
昭和時代以降昭和時代の火葬場(上:三重県の古い火葬場。右の煉瓦造りのものが火葬炉。
下:平成時代に完成した東京臨海斎場。)デザイン性を重視した斎場も増えている(川口市めぐりの森

昭和に入ると、重油焚き火葬炉と高煙突を設備した火葬場は、木薪や木炭を燃料とする火葬炉と比べて短時間[注 17] で火葬可能かつ煤煙や臭気の排出が少ないとして、昼間操業を許可される火葬場が増えていく[27]。この頃より、都市部では火葬場内に通夜、告別式を行える式場を併設したり、施設名称に「葬斎場」「斎場」「斎苑」を用いる火葬場が増えてくる。

昭和初期から中期にかけては、現代の火葬炉とほぼ同様な「台車式」と「ロストル式」の炉構造が確立して普及すると共に煙突の長大化が進んだ[注 18]。それと、全国的に寺院風デザインの火葬場建屋が新築されていることが目立つ。仏教系組織が経営する火葬場では当然と言えるが、自治体直営の施設にも多数の例があり、中には迎え地蔵や六地蔵を設置した自治体も有る。

太平洋戦争第二次世界大戦)開戦から、昭和20年代末にかけては、石油系燃料の入手が困難になったり、一部地域で葬儀資材節約の目的から座棺の復活などがあり、石炭炉または石炭重油兼用炉を設置したり、廃止または休止していた木薪炉や座棺用火葬炉を復活させる火葬場もあった。

昭和30年代になり石油系燃料の流通が安定して入手容易になると、多くの火葬場で木薪炉や石炭炉を廃止して寝棺用重油炉を新設する改装工事が行われたが、北海道・東北・九州の炭鉱地帯やそれに近接する地域では、昭和後期まで石炭炉や石炭重油兼用炉を用いていた火葬場もある。

古くから火葬が普及していた地域の個人所有または集落や自治会が所有する簡易な火葬場では、露天野焼き場を耐火レンガ製溝形火床へ改良して屋根を掛けたり、藁・木薪・木炭を燃料とする旧式簡易炉から灯油バーナーを用いる寝棺炉へ改良した例が多く見られる。

昭和40年頃から昭和50年代にかけては、都市部の火葬場設営者や火葬場建設を得意とする築炉業者を中心に火葬場から排出される煤煙や臭気を抑制する研究開発が活発になり、集合煙道途中に水シャワー(スクラバー装置)を設けて飛灰や煤を水溶回収したり、煙突直前に電気集塵機やバグ(繊維膜)フィルターを挿入するなどの煤煙除去努力が試みられて、黒煙や火の粉を減らす効果は得られたが、強酸性廃水やダイオキシンなどの強毒性物質を濃縮した煤灰を副生成してしまって処分が困難になるなどの問題を生じてしまった。


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